2021年06月15日

6月6日 説教要旨

この神は天地の主

2021年6月6日 聖霊降臨節第3主日(悔い改めの使信)
使徒言行録第17章22-34節
牧師 木谷 誠

 本日の聖書は使徒言行録です。この箇所は「アレオパゴスの演説(説教)」とも呼ばれます。アレオパゴスはギリシアのアテネのアクロポリスの西北面にある小高い丘のことを指します。アテネはいわば当時の「知恵の殿堂」であり、多くの知恵ある人々が様々に論じ合っている場所でした。そこでパウロは、ギリシアの人々がまだ知らない神のこと、イエス・キリストとその復活について大胆に福音を告げ知らせていたのでした。ギリシア人は知恵を愛する民ですから、パウロの話に興味を持ち、小高い丘アレオパゴスから人々に向けてその「新しい教え」を語ることを求めたのでした。これがアレオパゴスの演説(説教)です。アテネの町にはたくさんの神の像がありました。パウロはそれらが全て偶像であることに憤慨していましたが、あえてそれを表に出さずギリシアの知恵ある人々がまだ知らない神がいることを告げます。知恵に優れたギリシアの人々がまだ知らない神とは人間が作った神ではなく、人間を造った神、全ての天地万物を造られた方です。人間から何か捧げ物を受けて、支えてもらう必要もありません。むしろ人間に、必要なものを与えて養ってくださる神なのです。そして人との交わりを求められる神です。神は何物も不足していませんし、必要としていません。神は人との交わりを求められ、求める者にご自身を示してくださる方なのです。そして人をご自身の子どものように愛して、交わりのうちに入れてくださる方なのです。そして悔い改めて、人間の手で作った神ではなく、人間を造った神を信じなさいと呼びかけました。
 ここまでなら、ギリシアの知恵者たちもパウロの演説を新しい教えとして興味深く聞いたと思うのですが、ここから先が大きな問題となりました。それはイエス・キリストの復活についての事柄でした。神はイエス・キリストを遣わして、人々の罪を赦し、人々を神様の愛する子どもとして愛の交わりへと招かれました。このイエス・キリストが十字架にかけられたのち三日目に復活し、天へと昇られ、再びおいでになる時、この世界が正しく裁かれ、救いが実現することをパウロは告げたのでした。死者が復活すると聞いた途端、ギリシア人たちのほとんどは、パウロの教えを嘲笑い、相手にしなくなりました。ギリシア人たちにとって、死者が復活するなどということは、全くあり得ないことであり、受け入れられなかったのです。優れた知恵は、時としてそれが神の真理を妨げる時があります。神は、私たち人間の知恵を超えた方なのです。人間の知恵では到底理解できないことを実際に神様は起こされました。パウロも復活のイエス・キリストに出会った経験がなかったら信じられなかったことでしょう。
 しかし、パウロは復活のイエス・キリストと出会い、イエス・キリストの愛を経験してしまいました。それゆえに彼はギリシア人から嘲笑われようとも、ユダヤ人から迫害されようとも、イエスが死者の中から復活され、今も人々と共にいてくださること、信じる者は、天地、万物を作られた神との愛の交わりに入れられることを、パウロは、伝えずにはいられなかったです。
 これはギリシア人にとってはあまりにも新しい教え、しかも愚かに思えてとても受け入れられませんでした。そのためほとんどのギリシア人はこの教えを受け入れず去っていきました。まさしくコリントの手紙一第1章22節から24節にある通り、パウロが伝える救いの知らせは、人間の知恵を超えたものであり、それは愚かにも思えます。しかし、それを信じて受け入れる者には神の力、神の知恵を分かち与えてくれるのです。この教えは知恵によってではなく、信じることによって生き生きと働く教えなのです。
 私たちの知識や経験は、時として神の恵みを受け入れることを妨げることがあります。福音の喜び、神の力は、知恵によって得られるものではなく、信じることによって与えられるのです。知恵によってはたどり着けない福音の真理は、信じることによってその人の内に豊かに生き生きと働き、素晴らしい経験をもたらします。私たちも自分の知恵に頼ることなく、福音の知らせを信じることによって、豊かな神様の恵と出会い、喜びに満たされて歩んでいきましょう。

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2021年06月09日

5月30日 説教要旨

生きる意味

2021年5月30日 聖霊降臨節第2主日(神の富)
エフェソの信徒への手紙第1章3-14節
牧師 木谷 誠

 本日のエフェソの信徒への手紙は、「ほめたたえる(たたえる)」という言葉が繰り返し出てきます。誰をほめたたえるのか?もちろん神様をほめたたえるのです。ほめたたえることは、強制できません。強制された賛美(ほめたたえ)ほど虚しいものはありません。私たちが心から神様をほめたたえるためには、私たちが神様から素晴らしい恵みをいただいて喜びと感謝に満たされることが必要です。神様は、私たちが神様を心からほめたたえるために素晴らしい恵みを与えてくださいました。その恵みとはどのようなものだったのでしょうか?
その恵みは、まず第一に神様がイエス・キリストにおいて私たちを選んでくださったことです。私たちに何か価値があったからではありません。全くの恵として、ただ愛して神様は私たちを選んでくださいました。
 第二に神様はイエス・キリストによって私たちの罪を赦してくださいました。そのためにイエス・キリストが命を捧げて私たちの罪を償ってくださったのです。その結果として、私たちは、神様との愛の交わりに入れていただきました。そして私たちは神様に導かれて人生を歩むことができるようになりました。私たちは神様の救いのご計画に参加していただくことができるようになりました。色々な困難があっても、神様の救いのご計画は必ず完成します。私たちはそのような恵みと希望を与えられ、喜びと感謝のうちに神様をほめたたえて生きることができるのです。
 それでは神様をほめたたえるとは、具体的にはどういうことでしょうか?それは私たちがそれぞれ生活の場で、出会う人に愛をもって仕えることです。それは私たちが、神様の恵みに満たされ、今、希望を持って愛のわざに励むことです。そのためには、私たちには神様との愛の交わりの喜びが必要です。聖霊は、私たちの心に働きかけ、私たちに神様との愛の交わりの喜びを実感させてくださいます。その喜びで私たちに満たしてくれます。この聖霊によって、私たちは喜びと感謝のうちに心から神様をほめたたえることができるのです。
 詩編102:19節に「後の世代のために このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」とあります。神様を賛美するために私たちは作られました。神様は、私たちが神様をほめたたえるために十分な(余りある)恵みを与えてくださいました。この喜びと感謝を力として、私たちも神様を賛美することができます。そのように賛美(ほめたたえること)は、私たちの生きる目的、生きる意味なのです。
 聖霊を祈り求め、喜びに満たされ、感謝して神様をほめたたえて歩みましょう。それが私たちの「生きる意味」なのです。
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2021年06月04日

5月23日 説教

心を燃やすもの

2021年5月23日 聖霊降臨節第1主日
聖霊降臨日・ペンテコステ(聖霊の賜物)
使徒言行録第2章1-11節  牧師 木谷 誠

 本日は聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝です。「ペンテコステ」とはギリシア語で「五十番目」という意味です。教会では復活日から数えて50日後になります。イエス・キリストに代わって、天から降った聖霊を受けた弟子たちが、新しく歩み始めたことを祝う日です。その弟子たちの新しい歩みによって教会が始まりました。聖霊降臨日にいったい何が起こったのでしょうか?
 イエス・キリストが天へと帰られた後、弟子たちは、イエス・キリストを十字架にかけたユダヤ人たちを恐れ、部屋の中にこもってひたすらイエスの約束の実現を祈っていました。その約束とは何でしょうか?それは、使徒言行録第1章8節の「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」でした。そしてその日、不思議な出来事が起こりました。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」。これは「天」すなわち「神のいるところ」から「激しい風」すなわち「目に見えない強い力」がやってきて、弟子たちのところに届いたというのです。そしてその力は「炎」、全く新しい変化をもたらす力であり、「舌」、言葉を伴うものでした。その言葉とは、具体的には第2章36節の「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」です。この日から弟子たちは新しくされました。恐れることなく、心燃やされて「イエスは主、メシア(救い主)である」ことを伝えていきました。
 「イエスは主、メシアである」、この短い言葉が、弟子たちにとって、初めてただの知識、情報以上のものとなりました。「イエスは私たちの主、メシアである」。イエスは私たちを守り、導き、救ってくださる。いつもそばにいてくださる。このことが弟子たちの心に響き、生き生きとした喜びと力をもたらしたのです。その喜びに満たされ、感謝に満たされて、弟子たちはイエスに従う決心を胸に外へと踏み出しました。もう弟子たちは恐れませんでした。イエスが主、メシアとして、弟子たちの心に働きかけ、弟子たちの心を燃え上がらせていたからです。この弟子たちのメッセージはユダヤ人を超えて様々な国の人々に伝えられました。そして様々な国の言葉で「イエスは主、メシア(救い主)である。」との告白がなされました。使徒言行録第2章1節から11節にはそのような物語が象徴的に記されているのです。この弟子たちの心を燃やし、新しくした神様の目に見えない働きが聖霊の働きです。この聖霊を受けて、弟子たちは恐れることなく「イエスは主、メシア」であることを伝え始めました。聖霊は、この弟子たちの言葉を聞く人々の心にも働きました。そしてその人々も心燃やされて、イエスを信じるようになりました。そしてイエスを主と信じる者の集まりとして教会が誕生したのです。
 ところで今、この大きな不安の時代、私たちに必要なものは何でしょうか?教会としては、コロナ禍の中でギリギリの運営をしています。教会建物の課題もあります。またご高齢の皆さんは健康の不安もあるかもしれません。そんな私たちに必要なものは聖霊です。弟子たちの心を燃やし、イエスは主である、救い主であると確信を持って歩むことできる力、心を燃やすもの、聖霊です。この聖霊によって、わたしたちは慰められ、励まされ、強められ、導かれ、新しくされるのです。そしてこの聖霊は、私たちを結びつけ、一つにしてくれる力です。皆が、心を燃やされて、「イエスは私たちの主、救い主、メシアである」という告白によって、一つになることができるのです。
 この聖霊は今も聖書の言葉を通して働いています。この聖霊の働きは、聖書を読み、祈り求める者には誰でも分け隔てなく与えられます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。-略-あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。-略-このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカによる福音書第11章9節から13節)にある通りです。恐れと不安の入り混じる今、この聖霊を求めて歩んで参りましょう。
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2021年05月27日

5月16日 説教要旨

喜び、ほめたたえよ

2021年5月16日復活節第7主日(キリストの昇天)
ルカによる福音書第24章44-53節
伝道師 𠮷川庸介

 旧約聖書における預言の成就とは、「モーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてあること」であります。旧約の時代、絶望の中にあった人々に対し、救い主の到来という希望を教えた言葉がありました。今の時代であれば、ワクチンが完成し、それが行き渡る時が必ず来るといったことでありましょう。確かにそれは暗い時代にあって光指す希望になりえます。しかし、先祖たちが数百年間成就することなく、先祖が苦しみに耐えていた事実を弟子たちは知っておりました。先程の例で言いますなら、ワクチンがいつまでも完成せず、希望を全て打ち砕かれる状況でしょう。私たちもきっとそうですが、叶うはずだと信じていたことが全く叶わない時、やはり失望と共に、言葉に対して関心と信用が薄くなります。イエスの復活を目の当たりにしても、なおイエスを亡霊のように扱う弟子たちも、いつまでも成就しなかった旧約の言葉を思い出し、同じ感情を抱いていたかもしれません。
 しかしイエスは、そんな弟子たちの、頑なになっていた心を開かれました。自分がいかに救い主としての聖書に描かれる言葉通りに歩んできたかを語られます。イザヤ書、詩篇に描かれる苦難の僕を語り聞かせられ、これでもなお本当に信じないのかと言われます。よく、新約聖書において「こうして言われていたことが実現した」という言葉があります。例えば、ユダが自殺する箇所などがありましょう。そこには「こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とあり、エレミヤが語った言葉が語られております。つまりすべては偶発的に起こったのではなく、私たちは到底理解することができない神のみが知っている計画によって、全ては決まっていたことであるというのです。そしてそれを、心開かれた弟子たちは悟ったのです。
 ですが、心を開かれたといえどもそれだけでは十分ではありませんでした。どれだけ救い主であることを悟っても、その喜びを教えるにはあまりにも困難な時代でありました。エルサレムには自分たちを探し出して殺そうとする者もいる以上、宣教も、洗礼を授けることもできないのです。私たちも、喜びを知り分かち合おうとしても、そのたったの一歩を踏み出すことがどれほどの困難であるかをきっと知っているはずです。そのたったの一歩を踏み出す後押しを、私たちは常に求めております。弟子たちも同じであったことでありましょう。それゆえに、イエスは祝福を与えられたのです。
 思い返せばイエスの祝福は、つねに奇跡と共にありました。五千人に食事を与えられた時戸惑い臆す弟子たちに、最後の晩餐の時に、敵を愛せと語った人たちに、この祝福をイエスは与えられ、その奇跡は成し遂げられました。自分の力ではどうしようもなくなり祈り願うしかできなくなり、委ねなくてはならなくなった時、確かに私たちの背を押してくださるものであります。たったそれだけのこと、と言われるような簡単な言葉でありますが、それによって我らはでき得ぬことができるようになるのであります。すなわち、自分たちの敵で溢れかえるエルサレムへとわざわざ戻り、喜んで神を賛美する様子でありましょう。天に昇られたイエスが私たちに残してくださったものこそ、一歩を踏み出すための後押し、祝福であったのです。
 世界には、人の手ではどうしようもないと思えることが多々ございます。しかし思えば、その成し遂げられぬことを人は成し遂げてきました。それは神が祝福されたことによって行われたのではないでしょうか。そして今を生きる私たちもその祝福を与えられ、常に背中を押されていることはなんという恵みでありましょう。その事実の喜びを思い、主をほめたたえつつ、歩んでまいりたいと思います。
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2021年05月19日

5月9日 説教要旨

天の父よ

2021年5月9日 復活節第6主日 (イエスの祈り)
マタイによる福音書第6章5-13節
牧師 木谷 誠

 以前、子どもたちに主の祈りのお話をした時、一番伝えたかったことは、「主の祈りはイエス様が教えてくださったお祈りなんだよ」、神様は私たちのお父さんなんだよ」ということです。主の祈りは、唯一イエス・キリストが教えてくださった祈りです。その意味で教会の最も大切な宝の一つです。しかし、その一方で「主の祈りは教会の最大の受難者である」という言葉があります。主の祈りは、礼拝でも集会でも数え切れないほど祈られていますが、その意味をしっかりと味わって祈られているとは言えないからです。本日は、主の祈りの大切な意味、特に見落とされやすい「天におられるわたしたちの父よ」の意味を皆様にお伝えし、その恵みを分かち合いたいと思います。
 本日お読みいただいた聖書は、第5章から始まる山上の説教の一部です。この山上の説教の特徴の一つは、神を「あなたがたの天の父」と呼ぶことです。これは決して当たり前のことではありません。驚くべき大きな恵みなのです。神は「天」におられます。「天」とは人間が決して辿り着くことのできない神の座です。その様に遠く隔たった神が私たちの「父」となってくださるのです。「あなたがた」とはイエスのお話を聞いている人たちを指しています。神様が「父」であるならば、イエスの言葉に聴く者は「子」ということになります。これはイエスの言葉に耳を傾ける者という意味では私たちをも含んでいると考えて良いでしょう。神を「父」と呼ぶことはあくまでも比喩です。本来、神は創造者であって、私たちを造られた方です。そして私たちは神様によって造られたもの、被造物(作品)です。厳密な意味で、私たちは神様の「子」ではありません。神様の「子」はイエス・キリストだけです。それなのにイエス・キリストが神様を「父」しかも、「あなた方の父」として紹介する理由は何なのでしょうか?
 ここでイエスは、神様を「主」ではなく、「父」と呼ぶ様に勧めています。「主」という言葉で神を表現する時、「主」と向かい合う私たちは「僕、奴隷」となってしまいます。そこにあるのは、服従の関係です。もちろん神様を「主」と呼ぶことにも大切な意味があります。しかし、ここでイエスは、神様と私たちの関係は単なる服従の関係以上のもの、もっと生き生きとした喜びと感謝に満ちた「父と子」のような関係であると伝えたかったのです。イエスが「父」のイメージで伝える神様は、私たちを愛しておられ、私たちの罪を赦して、愛の関係を与えてくださる方です。罪深い私たち、繰り返し神に背く私たち、神様は、その様な私たちの「父」となってくださるのです。そこでイエスが伝えたいことは、神様との関係は、一方的な服従の関係以上の、暖かい喜びに満ちた愛の交わりなのだということです。神様が父となってくださり、私たちを子としてくださり、暖かい悦びに満ちた愛の交わりへと招いてくださっているのです。そのようにイエスは、山上の説教において、喜びと感謝に満ちた神との愛の交わりの世界を私たちに伝えています。神様は、私たちが「父」と呼ぶことをおゆるしになってくださいました。そして私たちを愛し、私たちの祈りを喜んで聞いてくださいます。なんと心強いことでしょうか。この恵みを喜び、感謝して、神様を「父」と呼んで歩んでいきましょう。
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