2022年12月13日

11月27日 説教要旨

恵みの約束

2022年11月27日 待降節第1主日・
アドヴェント(主の来臨の希望)
エレミヤ書 第33章14-16節
牧師 木谷 誠

 今週から始まるアドヴェントは12月25日のクリスマス前の四つの日曜日、それぞれの礼拝のテーマと聖書が与えられています。本日のテーマは「主の来臨の希望」です。与えられた聖書はエレミヤ書です。アブラハム、モーセ、ダビデに与えられた約束(契約)は、それぞれにとても大切な意味を持っていますが、結果としてどの約束もイスラエルは守ることができませんでした。約束が守られない。約束が成り立たない。このままでは神とイスラエルの関係は成り立たなくなってしまいます。
 たとえば、友達関係で考えてみましょう。あなたの友達があなたとの約束をいつも破っていたら、果たして友達でいられるでしょうか?それは難しいのではないでしょうか?
 それでもなんとかしてイスラエルを救うために、神は新しい約束(新しい契約)を与えてくださいました。約束は関係を示しています。神が与える約束は神とイスラエル、ひいては私たちの関係を示しています。また約束はそれを与えてくださった神の心を表しています。では、本日、エレミヤ書が告げる「恵みの約束」はどのようなものでしょうか?そこに示される神とイスラエルとの関係、約束を与えてくださった神の心はどのようなものなのでしょうか?
 まずこの約束は「恵みの約束」です。「恵」ということは、タダで与えるということです。ここではイスラエルが約束の相手として相応しくないにもかかわらず神は守り導くということです。イスラエルが約束を破っても、神は約束を破りませんでした。そしてその度に約束の内容を変更して、イスラエルに守りに守りと導きを与え続けました。なんとかしてイスラエルを救いたい。という神の強い救いの意志が示されています。
 私たちの人生には様々な悲しみがあります。その中でも約束を破られる、裏切られるということは本当に辛いことです。神も愛するイスラエルが約束を破り、裏切った時には、大きな悲しみがありました。それでも神の愛は変わりません。繰り返し裏切り、時には敵対してしまうどうしようもないイスラエルの民を、神はなおも愛し続け、見捨てず、導き、守り、続け、愛の交わりを守ってくださいます。これが神の恵みの約束です。
 この恵みの約束は「正義の若枝(15節)」によって果たされます。この若枝によって、正義と公平が実現します。イスラエルにおいても、強い者が正義を捻じ曲げ、弱い者を虐げ抑圧していました。それは神に背くイスラエルの罪の姿でした。
 そのようなイスラエルを私たちに対して、愛の交わりを実現するために新しい恵みの約束を果たすために来る「正義の若枝」こそイエス・キリストであると聖書は告げています。
 ここで「恵みの約束」についてお伝えする時、エレミヤ書第31章の新しい契約につても触れたいと思います。この新しい契約は裏切り続けるイスラエルに対して与えられます。神がイスラエルの罪をゆるし、その心に直接働きかけ、愛を注ぎ、愛の交わりをもたらすという約束です。本日の「恵みの約束」の内容はこの「新しい契約」と重なります。この約束は、旧約聖書においては、未来の希望として述べられています。その希望を実現する「正義の若枝」こそイエス・キリストなのです。このイエス・キリストによって恵の約束(新しい契約)が「始まりました」。この恵みの約束は、「進行中」です。始まってはいますが、その完全な実現はまだ未来の希望です。だから「約束」です。
 この「恵みの約束」は破られることはありません。たとえ私たちが約束を破っても、神は、イエス・キリストは約束を破りません。約束を繰り返し裏切ってしまう弱さと罪にまみれた私たちに対して、神は、イエス・キリストは、忍耐強く愛することをやめようとしません。
 この方によって恵みの約束は始まりました。そしてこの約束は必ず完成します。この約束を完成するために来てくださった救い主がイエス・キリストなのです。
 その「恵の約束」に示された神の愛と忍耐を確かめ、喜びと感謝を新たにしたいです。二つ目はこの約束が必ず完成することを信じましょう。このことを確かめ、希望を持って、この恵の約束を下さった神に喜ばれる歩みを成していきましょう。これらのことをご一緒に確かめ、今年の喜びのクリスマスに向けて歩んでまいりましょう。
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11月20日 説教要旨

使命に応えて

2022年11月20日 降誕前第5主日・
収穫感謝日・謝恩日(王の職務)
サムエル記下 第5章1-5節
牧師 木谷 誠

 クリスマスに向けて、本日の礼拝のテーマは「王の職務」です。このテーマを思いながら、ダビデという王について、祈りつつメッセージを求めていました。その中でふと気付かされたことがあります。ダビデは自分から望んで王(支配者)になったのではなかったのではないかということです。
 特にこのサムエル記下5章に至る流れの中で、ダビデに特徴的なことはサウル王への忠実です。ダビデはサウル王の家臣として目覚ましい結果を出していました。ダビデの人気はサウル王を凌ぐようになり、サウル王はダビデを妬むようになりました。加えてサウロは神に背いてしまいました。その心の不安も重なって、サウルはダビデを殺そうとしました。ダビデはサウル王と争うことを願わず、逃げました。何度かサウル王の命を奪うチャンスもありました。先に命を狙ったのはサウル王です。だから仮にダビデがサウル王の命を奪ったとしても正当防衛でした。しかし、ダビデは決してサウルに報復しませんでした。どうしてでしょうか?
 なぜならダビデにとってサウル王は、主によって任命され、油注がれた人であったからです。サウル王は神から見捨てられていましたが、それでもダビデはサウルを王に任命した主の御心を大切にしたのです。
 ダビデは過ちも犯しましたが、その度に悔い改めました。ダビデは過ちを認めることができる人でした。正しい歩みに戻ることができる人でした。そして主なる神を羊飼いとして仰ぎ、従う歩みへと戻っていきました。
 ダビデは支配者になろうとしてなったのではありません。ダビデはその生涯を通して、主に仕える者であることを徹底したのでした。ダビデは「支配する者」ではなく、「仕える者」でした。ダビデは「主」になろうとしないで常に「僕」であろうとしました。その主に従う歩みの中で王(支配者)という役割をいただいて、それに忠実であったのです。支配しようとして王になったのではなく、主に仕えることを志していて、結果的に王になったでした。ダビデにとって、王の職務、使命は「支配すること」ではなく、「仕えること」だったのです。
 そのようにダビデについて思い巡らしていましたら、ふとマルコによる福音書10章42節以下を思い出しました。
42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
 イエスは、この言葉の良い模範としてダビデをイメージしていたのかもしれません。ダビデは「仕える者」としてへり下って、神に従う姿勢を持ち続けた人でした。同時にそれは人に「仕える者」でもありました。それこそが「王の職務」なのではないでしょうか。そしてその姿をダビデよりも徹底して実践した人こそイエス・キリストなのです。
フィリピの信徒への手紙2:6-8
6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
 私たちの教会では、皆、一人一人は平等です。そこに違いはありません。私であれば「牧師」という役割を神様からお預かりしています。それは決して「身分」ではありません。牧師という一つの役割分担をいただいているということなのです。ちなみに私は「牧師」という字は「僕として仕える」と書くと思っています。神様と教会、地域に「僕」として仕えることが私が神様から与えられた役割です。
 「仕える者」として生きることは難しいことです。どうしたらなれるのでしょうか?私たちは常に聖霊の導きを祈り願うことによって、「仕える者」育てていただけるのです。
 私たち皆もアドヴェント、そしてクリスマスに備える時、へり下って、神と人、地域に「仕える者」として歩んでまいりましょう。
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2022年12月06日

11月6日 説教要旨

信じる

2022年11月6日 降誕前第7主日
(神の選び・アブラハム)
創世記 第18章1-15節
牧師 木谷誠

「もてなしの文化」は、古代の地中海世界、中東からアジアにかけて広く行き渡っています。聖書でもそれは同じです。ヘブライ人への手紙第13章2節には「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」と書いてあります。
 神様の使いは、名刺を差し出したりはしません。神様の使いは知らないうちにやってきます。アブラハムは結果的に神の使いをもてなし、受け入れたのでした。いつでも出会った人を心から受け入れる備えが大切です。そしてアブラハムは子どもを与えられるという神様の祝福を確かめることができたのです。めでたし、めでたし・・
ところが話はここで終わりません。この物語はむしろここからが本番(?)です。そこに聖書の物語の深みがあります。ご一緒に味わって参りましょう。
 サラはこの知らせを聞いて笑いました。この物語を読んでいて笑いについて考えました。普通は嬉しい時、楽しい時、おかしい時、面白い時、人は笑います。しかし、そればかりではありません。テレビでニュースを見ていて、災害で大きな被害に遭った人のインタビューで、大切な家が壊れてしまったのに、被害者の方が笑っている場面を何度も見たことがあります。笑いは複雑です。人間は、悲しい時、絶望している時でも笑うのです。
 サラの笑いにはどういう意味があるのでしょうか?ここで注意しなければならないことがあります。笑ったのはサラだけではないということです。アブラハムも笑っています(創世記第17章17節)。
サラだけでなく、アブラハムも笑いました。このアブラハムの笑いは、サラの笑いと同質です。二人は何を笑ったのでしょうか?二人が笑ったのは神の約束でした。二人の間に必ず子どもが与えられ、多くの子孫に恵まれるという神の祝福の約束を、アブラハムとサラは笑ったのです。すなわち二人は神を笑ってしまったのです。
 この笑いを不信仰、神への冒涜と結論づけるのは、片付けるのは少し単純過ぎます。この笑いは諦めの笑いです。人は希望を失った時にも笑うことがあるのです。
 アブラハムは神の約束を信じて、行先も知らないまま旅立ちました。サラもそれに従いました。ここまでの道のりはとても大変でした。それでも歯を食いしばって、神の約束を信じて旅を続けました。しかし、もう二人とも年老いてしまいました。二人は神の約束を信じることに疲れてしまったのでしょう。そこに大きな問題が潜んでいます。それは神の祝福の約束を信じきれない弱さです。
 この物語は唐突に終わります。どこか余韻の残る文学的には美しい終わり方のように思われます。そして御使の告げる主の言葉には希望があります。14節に「主に不可能なことがあろうか」と書いてあります。絶望に心が折れ、諦め、虚しく笑ってしまう時があります。人が絶望してしまっても、神はそこに希望をもたらしてくださるのです。弱さゆえに陥る罪があります。その弱さを神は憐れんでくださるのです。
私たちもさまざまな問題に悩まされます。心が折れそうになります。諦めそうになります。しかし、希望を失ってはいけません。「もういいか、こんなものかな」と諦めて、思わず笑ってしまう。でも諦めてはいけません。
 神様が私たちに用意してくださっている祝福は私たちの想像を超える大きなものなのです。その約束に期待することをやめてはいけません。信じ続けていれば、必ず神様はそれに応えてくださいます。その信頼は報われます。不信仰に陥っても、悔い改めてもう一度信じ直せば良いのです。神様はゆるしてくださいます。そして信じ続けていれば諦めの笑いが喜びの笑いに変わる日が来ます。「諦めなくてよかった」とサラは思ったことでしょう。
 信じ続けること、期待し続けることは大変難しいことです。それを可能にするのは聖霊の助けです。私たちは聖霊の助けを常に祈り求めることによって神の寄り添いに気づきます。
 この恵みに感謝して、信じ続ける者、寄り添い続ける者として歩んでまいりましょう。
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2022年11月29日

10月23日 説教要旨

思い悩むな、ただ神の国をもとめなさい

2022年10月23日 降誕前第9主日(創造)
分区講壇交換
ルカによる福音書 第12章13-31節
三島真光教会 伝道師 川上敏雄

 今日の最初の聖書箇所は「愚かな金持ち」という小見出しについてのお話です。「私に遺産を分けてくれるよう兄弟に言って下さい。」というお金に執着した人に対して、イエス様はある金持ちのお話をされます。豊作だったので倉を建て直して、穀物や財産を蓄え、後はゆっくり暮らそうと考えた人のことです。私達はこのお話をきいて、違和感を感じないでしょうか。不透明な先行き、不作や飢饉があるかもしれないから、それに十分な備えをして安心したことのどこがいけないだろう。何も悪いこともしていないのに、この男はなぜ命をとりあげられたのだろうか。
 実は、そのことが問題ではないのです。神様が問題にされたのは「こう自分に言ってやろう。『…一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。』」これは、自然の収穫や蓄えが神様と関係ない自分自身のものとしているのです。自分の命、魂もすべて、あたかも自分自身の支配している所有物のように感じているところにこの男の愚かさがあるのです。
 ここには神様を忘れた人間の富を大事に思う心と、自分を休ませるという支配する気持ち、つまり自分が支配者になっている心が全面に出てきています。イエス様はそのような人の陥りやすい富への偶像崇拝を、このたとえをもって鋭く指摘されたのでした。
つづいて、イエス様は「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」と言われます。まさにこの世界を支配していて下さるのは神様であることを忘れているとき、人間は思い煩いに陥ります。これは神様を仰ぎ見、神様との正しい関係にあることから離れてしまっているときです。
 イエス様は、自然の被造物がそれ自身で美しい姿であることの譬えを用いて、神様はこれらの自然の被造物よりはるかに弟子達を大切に思っておられることを指摘され、その神様に対する弟子達の信仰が薄いと非難されます。これは心配するということが神の支配を信じていないことを示すからです。
 神様が自然の秩序を保っておられるのに、なお思い煩うことをイエス様は異邦人(神を知らない人)の生き方だと言われます。先の愚かな金持ちも、何を食べようか着ようかと思い煩う弟子達、そして私達にも、世俗の価値観を捨て「ただ神の国を求めなさい」とイエス様は言われます。そこに真に平穏な神様の支配があるからです。
 私達は神様が私達とこの世を創造して下さったこと、そしてその愛を持って神様が私達を見守っていて下さることを忘れるとき、このつまずきに巻き込まれてしまいます。
いつも主なる神様の御支配と、守りの中にあることを忘れずに、主を信頼し歩む毎日でありたいと願います。
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10月16日 説教要旨

天の国へ行こう

2022年10月16日 聖霊降臨節第20主日・
(天国に市民権を持つ者)
イザヤ書 第25章1-9節
伝道師 𠮷川 庸介

 イザヤ書というのは、旧約聖書の中にいくつもある預言書の中で一番長いものです。おそらく一番研究の的にされてきた書物ではなかろうかと思います。いつの時代に書かれたか、誰が書いたのか、本当のことなのかなど、色々なことが言われてきました。しかしどうであっても、これは確かにイザヤが語った言葉なのだと信じられて語り継がれ、いつ、誰が読んでも、これは今を生きている自分に向かって確かに話しかけられている御言葉である、ことは揺るぎないことと思うのです。
 この25章はイザヤの黙示録という名前がつけられている24-27章の中に位置しています。24章では、今ある世界の秩序が破壊され、世の中で当たり前と思われていたことが通用しなくなる状態となる様子が描かれます。恐ろしいことですが、それを見てみんな主がこの地上に救いをもたらすのだと喜びの声を上げるわけです。現実として世界が崩壊していく様を見て、これから良い世界がやってくる、とすぐに切り替えができるほど人は単純にはできてはいないと思うのですが、全てはイスラエルと呼ばれる私たちを救い出すために、行なってくださっているのだと、信じているわけです。その信仰の告白として、4節では神にあなたは弱い者の砦、避けどころですと言っています。ここで面白いなと思うことは、苦しみをなくすとは言っていないところです。受け入れたくはありませんが、こういった苦しみは無くならないわけです。この事実を受け入れることと信仰を持ち続けることの難しさはどれほどのものかと思います。
 神からのみ恵みは目に見えないものです。神様を信仰したら病気が治った、願っていたことが叶えられた!というわけではなく、むしろそうならないことが多いのです。避けどころとなってくださっても、苦しみそのものを取り除かれないことに疑問を抱き、自分の信仰に苦しむこともあります。ただ、新約聖書でパウロは「わがとげを抜いてください」という願いをしています。どうも彼は目が悪く体も弱かったと言われています。それをどうか、治してほしいと願ったわけです。その願いが聞き遂げられてすぐに治ったら、ああ神を信じればこんなご利益があるのだ、信じようとなるわけですが、そうはならないのです。
 奇跡が起きないでは無いか、なぜそんな不確かなものに縋って生きていくのか、情けないことだと揶揄する人も多いでしょう。
ですが、新約聖書では到底起きないような奇跡、イエス・キリストの復活が起こります。イエスが復活したところで自分の生活が良くなるわけではないし、それが自分にどんな影響があるのだろうかと冷笑するかもしれません。ですがこれは、神が私たちには到底できないことを成し遂げられる方で、自らが約束されているいつの日か確かに再会できるのだという言葉を、そして私たちを報いてくださることが確かなのだと証してくださっているのです。
 その主が山、すなわち自らが住まれる場所、天の国においてこれからやってくる人たちを良い肉と醸造されて良くなった酒を振る舞って迎え入れる準備をしてくださっているというのです。目の前を暗くし、展望をも見えなくし、国全体を覆う暗鬱としたものを取り払い、死を滅ぼし、涙をも拭ってくださり、しかもそれをただ一部ではなく全ての人に行うというのです。その日にその恵みに与る皆が、一斉に主のことを賛美するというのです。神の下にあって迎え入れられる場所、神の国、天の国において行われるその祝宴に、分け隔てなく誰もが招待されて喜ぶというのです。あるかも分からないと言われようと、だが神が確かに与えると言ってくださった天の国、すなわち神が待たれているその場所を追い求め、歩む中には、言葉にできないほどの大きな希望があるはずです。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 16:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする