2022年01月25日

1月16日 説教要旨

呼ばれています

2022年1月16日 降誕節第3主日
マルコによる福音書 第1章14-20節
牧師 木谷 誠

 信仰を持つとはどういうことでしょうか?一つは、「神(イエス)からはどう見えるんだろうか?」とか「神(イエス)ならどう思われるのだろうか?」を第一に考えることだと思います。今、起こっている出来事をどう受け止めるか、どう見るか。その時に、自分の経験や知識、人の意見よりも、「神からは、イエスからはどう見えるのだろうか?」を先にするということです。具体的には聖書の言葉に聞き、祈る中で、今起こっている出来事をどう受け止めたら良いかが示されます。
 本日の聖書は、ヨハネ逮捕の出来事から始まります。このヨハネは洗礼者ヨハネです。彼は、預言者として、神様から受けた言葉(預かった言葉)を人々に伝えていました。また、神様の御心に従って、ヘロデ王の間違いを指摘していました。その神に仕える預言者が、権力者によって捕らえられました。神の働きを人間の横暴が踏みにじっています。とても悔しいことです。「神は横暴な王よりも弱いのか、それなら神を信じることに意味があるのか」と言いたくなります。心が折れそうになります。しかし、それはあくまでも人間の見方です。ヨハネの逮捕の出来事と同時にイエスが登場します。その第一声は「時は満ちた。神の国は近づいた。」です。人間の見方なら逆でしょう。「時はまだ、神の国は遠くなった。」しかし、神(イエス)の見方は違います。望みが消えるような状況の中で、神の働き、神の国は押しつぶされてはいません。むしろ神の国はそこから力強く始まっていくのです。
 その時に必要な私たちの応答は「悔い改めて福音を信じなさい」とのイエスの呼びかけに従うことです。悔い改めとは、「神様と向き合って、自分の罪や弱さを認め、新しい生き方を始める」ということです。ヨハネが逮捕された出来事を聞いて絶望する自分を改めるということです。私たちが「神は敗北した。もう望みはない」という見方を改めることです。
 この出来事は「神の敗北」ではない。この出来事の中で神の時は来ている。私たちが神の国(神の支配)は近づいているのだと受け止めることです。洗礼者ヨハネは横暴な権力者によって押しつぶされ、その働きは意味のないものとなったのではありません。洗礼者ヨハネの悔い改めの勧めは、神様の救いの御計画の中で、イエス・キリストの登場のための良い準備として大切な意味が与えられています。
 新型コロナウイルスの第六波が来てしまいました。加えて今朝は津波まで・・・わたしたちは、うんざりして、心が折れそうになります。しかし、わたしたちは、その中でも、神様の御業は確かになされているのだとこの聖書の言葉から励ましをいただきたいと思います。
そして幸いなことに、そのような神様の御業の働きの実現のために、神様は人間をお呼びになるということです。そこに参加させていただけるのです。イエス様はそのために弟子たちに声をかけられました。私たちも呼ばれています。
 この一年の始まりは大変残念なことに新型コロナウイルス第六波で始まってしまいました。しかし、その中でも、「時は満ちた。神の国は近づいた」との聖書の言葉を信じて、心折れることなく、神様の御業に参加してまいりましょう。私たちは「呼ばれています」。
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1月9日 説教要旨

神の心に適う者とは?

2022年1月9日 降誕節第3主日
(イエスの洗礼)
マルコによる福音書 第1章9-11節
牧師 木谷 誠

 教会の暦では降誕節ですが、聖書朗読はイエス・キリストの生涯をたどります。この流れは3月2日から始まる受難節(レント)そして4月17日の復活祭(イースター)まで続きます。昨年10月24日の降誕前第9主日から今年の6月5日の聖霊降臨までの期間は神の救いの御計画を主イエス・キリストを中心にたどる「キリストの半年」です。その中で本日は、イエス・キリストの洗礼の物語をご一緒に味わってまいりましょう。ここでイエス・キリストが受けた洗礼は洗礼者ヨハネによってなされた洗礼です。神の前に自分の罪を認め、水の洗いによって清めていただき、新しい生き方を始め、「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ための儀式でした。その中心となるメッセージは悔い改めです。そのヨハネの洗礼をイエスが受けたということはイエスが罪人の一人となられたということを意味しています。これはどういうことでしょうか?
 これは神が人となられたというメッセージです。一つには神の謙遜の表れです。いと高き神のひとり子が人間の姿となり、罪人の一人となられました。それほどまでにご自分の身を低くされた神の謙遜が現れています。私たち人間はもともとさまざまな弱さと罪を抱えていますから、自らを罪人と認めることは当たり前のことです。しかし、いと高き神のひとり子が自らをこれほどまでに低くされたということは、決して当たり前のことではなく、驚くべきことです。その神の謙遜には、それほど身を低くしてでも、私たち人間に連帯して罪から救い出そうという神の愛の強さを深さが表されています。二つ目にそれはイエス・キリストの神への従順の表れです。神からイエス・キリストに課せられた使命はとてつもなく苦しく重いものでした。しかし、それが神の御心ならば、それに従うというキリストの従順がそこに表されています。それはいかに大きな苦しみであろうともその身に引き受けていく凄まじいまでの決意の込められた従順でした。三つ目はキリストの神と私たちへの奉仕の表れです。イエス・キリストはその生涯をただひたすら神と人への奉仕のために用いられました。神の御心に従い、人々を愛し、神の国について教え、病を癒やし、悪霊を追い出し、友なき者の友となられました。そのような徹底した奉仕の生き方を選び取るという決断がイエス・キリストの洗礼の出来事の中に表されています。
 そのような決断をもって、ヨハネの洗礼を受けたイエス・キリストに聖霊が鳩のように降ってきました。この聖霊は神から与えられる目に見えない力であり、イエス・キリストの働きの原動力です。謙遜に身を低くし、神の御心に従順に従い、神と人とに仕える奉仕の決断をしたイエス・キリストに聖霊は降りました。聖霊は与えられました。この聖霊をいただくことによって全てが可能となっていったのです。
 私たちもイエス・キリストを主と信じる者ならば、神はこのイエス・キリストの謙遜、従順、奉仕の歩みへと導いてくださいます。しかし、それはとてつもなく困難な道です。人間的な知恵と経験の世界では実現不可能なことでしょう。しかし、この物語は神に仕える決断をしたイエス・キリストにそれを成し遂げる力として聖霊が与えられたことが示されています。このメッセージは私たちにとってとても重要です。神に従う決断をなした者にはそれを成し遂げる力も与えられるということです。私たちもイエス・キリストに倣って、神に従う歩みをなそうという決断をなす時、神はイエス・キリストと同様に私たちにも聖霊をくださるのです。謙遜、従順、奉仕の生涯を全うされたイエス・キリストには、とてもとても及ばない私たちですが、それでも神に従う決断をする時、神は聖霊を注いでくださいます。それによって、私たちは、それぞれ私たちの個性に応じて、キリストに従う歩みを全うできるのです。私たちにとって大切なことは、神に従うことができるかどうか、あれこれ迷って考えることではなく、決断することです。「神様、従います。どうか用いてください」と。その時、神様はその決断を喜び、それを成し遂げる力、すなわち聖霊を与えてくださるのです。この聖霊こそ、一切を可能にする神から贈り物です。
この一年、神に従う決断を新たにし、聖霊を祈り求めて歩んでまいりましょう。
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1月2日 説教要旨

何に支えられて生きるのか

2022年1月2日 降誕節第2主日
(エルサレム訪問)
ルカによる福音書 第2章41-52節

 1月6日の公現日をもってクリスマスの期間は終了します。礼拝で朗読される聖書は、イエス誕生の物語からイエスの生涯、そして十字架の苦難へと繋がっていきます。本日与えられました聖書は、クリスマス物語からイエスの生涯へのつなぎの物語です。イエスの少年時代を記しているのは聖書でこの一つだけです。イエスが両親と過越の祭りを祝うためにエルサレムに詣でた時の出来事が記されています。敬虔なユダヤ教の家庭に育ったイエスは、その習慣に従って毎年の過越の祭りの際には欠かさず神殿に詣で、熱心な信仰生活を続けていました。ところがその帰り道、イエスがいないことに両親は気付いたのです。驚いたことに既に一日が過ぎていました。両親は慌てて引き返し、三日目にイエスを神殿で見つけました。イエスを見失って三日目にエルサレム神殿でイエスを見出す。もしかして、イエスが十字架に死んでから三日目によみがえりという復活物語が予見されているようにも読めます。そこで見たのは神殿で熱心に神の言葉に聞く姿、神との交わりに生きるイエスの姿とでした。
 このようなイエスを母マリアは咎めました。親とすれば至極当然のこと、ほとんどの親がこう言う対応をすることでしょう。これに対するイエスの答えは親を戸惑わせるものでした。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」このイエスの答えの中に「自分は神との交わりに生きる。神から委ねられた役割を担って生きる。」という決意が示されています。これからイエスが救い主としての歩みをなし始めることが予告されているのです。しかし、そのことはまだ両親には理解できるはずもありません。ただ、マリアはこの理解し難いことを、捨て去るのではなく、心に納めていました。今わからなくてもやがてわかる時が来るから、その時まで忍耐して待つというこのマリアの姿勢は信仰の姿勢としてとても大切な模範的なものです。意味不明な点を残しながら、その場は収まり、イエスは郷里へと帰り、両親に仕えました。まだ救い主としての活動を始める時は来ていなかったからです。その備えとして、イエスは両親に仕えました。さぞかし親孝行をしたのでしょう。そして神と人から愛されてイエスは救い主として神の御業を担う身支度を成したのでした。
 私たちも、神様からそれぞれに役割をいただき、それを担っていきます。その時に、イエスのように神の言葉に熱心に聞く姿勢を大切にしたいと思います。時には神のご計画、神のみ心が見えないこともあるでしょう。その時はマリアのようにわからなくても、いずれわかる時が来ることを信じて、心に納めてその時を待つそのような姿勢も大いに大切です。そのようにして神様から委ねられた役割を大切に担いつつこの新しい年を歩んで参りましょう。
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12月26日 説教要旨

会いたいから

2021年12月26日 降誕節第1主日
(キリストの降誕)
ヨハネによる福音書 第1章1-14節
牧師 木谷 誠

 クリスマスおめでとうございます。
 本日与えられたヨハネによる福音書を読みながら、わたしはあるクリスマスコンサートのDVDを思い出しました。そのコンサートではドイツの教会で色々な教派の聖歌隊がそれぞれのクリスマスの聖歌を歌っています。キリスト教の中で最も古い伝統を持つ正教会の聖歌隊がクリスマスに歌った聖歌は天地創造の神の御業を褒め称えるところから始まっていました。
 今日のヨハネによる福音書も同じです。もともとヨハネによる福音書は新約聖書の文書の中でも最も旧約聖書の影響が色濃く現れています。一節はまさしく神が言葉(神の意志)によって世界を創造された創世記の第1章と繋がります。言葉は神の意志であり、この神の言葉、神の意志によって世界が創られました。そして神はこの世界に、人間に命を与え、祝福されたのです。そのようにして神が造られた世界は、神ご自身が「それは極めて良かった(創世記第1章31節)」と言われるものでした。そしてその世界の中で、人間は神の似姿として、神の恵みをいっぱいに受けて、神に感謝し、喜びに溢れて神をほめたたえる者として造られたのでした。しかし、人間は神に背きました。その背きの罪によって、世界は神の祝福から外れ、罪の闇に陥ってしまったのでした。そして罪の闇に堕ちた世界、人間は、神の愛を受け入れませんでした。この神の愛の呼びかけ、愛の働きかけとそれを受け入れない罪の現実は、イスラエルの歴史と重なります。また、人間の歴史と重なります。もちろん、部分的にはイスラエルも、人間の歴史の中でも、神に従い、平和に過ごした時期もありましたが、それは長続きしませんでした。
 しかし、神の言葉、神の意志、神の愛の意志は、そこで止まりませんでした。神は罪の闇に陥ったイスラエルを、世の人を見捨てることをなさいませんでした。そのような闇の世に愛を注ぎ、光をもたらし、もう一度神との愛の交わりに招き入れようとして、神はイエス・キリストの姿でこの世界に来てくださったのです。それは神に叛く世界に対して、尚も愛し続ける神の愛の表れでした。闇の現実、罪の現実に降りてこられ、痛み、傷つきながら、罪を共に担い、苦しむ人に寄り添い、罪から救い出すために命を捧げる神としてイエス・キリストが来られたのです。誰も神を見た者はいません。ただイエス・キリストという姿でのみ、目に見える形で示されました。そこに神の恵みと変わることのない真理(救いの知らせ)が溢れるばかりに示されています。そして信じる者はこの恵みに満たされるのです。
 それでも世は、世の人は、イエス・キリストを受け入れず、十字架にかけて、殺してしまいました。罪の闇は神の愛の光を受け入れませんでした。それでもなお、イエス・キリストは三日目に復活され、永遠の命を示し、わたしたちにそれを分かち与えてくださるのです。この恵みが示された祝いの日がクリスマスです。
 私たち、この恵みに感謝し、この恵みに応えて、愛の業に励む者としてここから歩み出していきましょう。
 クリスマスおめでとうございます。

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2021年12月27日

12月19日 説教要旨

見よ、神は確かに顧みられる

2021年12月19日 待降節第4主日(告知)
サムエル記上 第2章1-10節
伝道師 𠮷川 庸介

 神に感謝を捧げるということは、どのような言葉を紡がれて表現されるものなのでしょうか。紡ぐ言葉、表現もそれぞれ違うため一概には言えないとは思いますが、やはりその根幹には、神に感謝というもの決して揺るぎのない確固としたものがあるに違いありません。ハンナの祈りは、そのことを教えてくれるのです。
 ハンナは子どもが長らくできなかったことから非常に肩身の狭いところに身を置いていたようです。当時、子どもを産んで育てるということが、共同体の中で地位を獲得するという価値観が強烈なまでにありました。既に夫のそば目として子供を産み育てていたぺニナは、すでに自分が社会的な評価を得ているということを自覚していたからか、正妻であったハンナを嘲笑し、軽んじるかのような態度をとっていたようです。だからこそ、子供ができたあと、ハンナは主に対してこのような小さな小さな、あなたに仕える一人の女性を顧みてくださったのだと、神への賛美の歌を、紡いだのでありました。
 ところで、このハンナの祈りと、実によく似た賛美の歌としてあげられる一つが、イエスを身ごもったマリアの祈りです。マリアは、賛歌の中で自分のことを取るに足りないはしためと呼び、賛歌の中で権力のある者が衰退し、身分の低い者を高く上げることが詠まれています。一方のハンナの賛歌では、食べ飽きるほどに物を持つ者は、食料を探し求めるところまで低くさせられ、飢える者は二度と飢えることがなく、弱いものを塵の中から立ち上がらせるとあります。こういった共通点からは、権力を持つ者のために手を差し伸べるのではなく、打ち捨てられ、取るに足りないと言われんばかりの人達にこそ、その手を差し伸べるという事実を、言葉をつくし伝えられているように思います。
 こうして見ていくと、ハンナとマリアの祈りとは、その根幹はやはり神への感謝がありますけれども、その感謝を向ける神とはどのような方でしょうか。賛美の歌にありますよう、主は貧しくも、富ませもする恐ろしい方なのでしょうか。あるいは、権力者を墜落させ、下に、下にといる人たちを上へと引き上げることをしてくださるから賛美の歌を歌うのでしょうか。そうではなく、このような私を目にかけてくださり、顧みてくださるからこそ私たちは神を賛美するのだ、と言う確固たるメッセージを私たちは見出すのです。また、彼女達を顧みたと言うその事実は、誰で在っても分け隔てなく、耐え難いほどの状況下に置かれている人に喜びの恵みが与えられることもまた、教えてくださるのです。
 アドベントクランツに4本目の蝋燭が灯り、主を迎える準備の期間を私たちは終えました。主が確かに私たちを顧みてくださったことに想いを馳せ、喜びのクリスマスを迎えましょう。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする