2020年10月11日

10月4日 説教要旨

イエスを信じるために

2020年10月4日 聖霊降臨節第19主日
世界聖餐日、世界宣教の日(神の富と知恵)
ヨハネによる福音書第10章31-42節
牧師 木谷 誠

 ユダヤ人たちはイエスを石で撃ち殺そうとします。30節の「私と父とは一つである」という言葉を聞いて、ユダヤ人たちはイエスが神を冒瀆していると理解したからです。「神を冒涜する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。(レビ記24章15-16節)」とある通りです。ユダヤ人たちに対して、イエスは、旧約聖書の中で神に仕える人々を「神々、神の子」と呼ぶ例(詩編82編6節)を引用しています。イエスは、自分も神に遣わされた者である故に自分を「神の子」であると言っているのであって、決して神を冒瀆しているのではないのです。その上でユダヤ人たちに対して、イエスは自分を信じなくても良いが、自分の業が神の働きだと信じなさいと求めます。イエスの業を信じるならば、それが神の業であると認めざるを得ません。そうなるとそれを行うイエスが神から遣わされた者、そして神の子であることを認めざるを得なくなるのです。しかし、ユダヤ人たちにとって、それを認めたら自分たちの信望をイエスに奪われることになります。イエスが神の子であることは、自分達の立場を脅かす「不都合な真実」です。故に彼らは信じようとせず、イエスを石で撃ち殺そうとします。それからもう一つ、彼らがイエスを信じない原因は彼らのおごり高ぶり、頑なさです。「イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネによる福音書第9章42節)とある通りです。「見える」、「わかっている」というユダヤ人たちの自信は、おごり高ぶりとなっていました。そして自分の考え、思いは決して絶対的なものではなく、それと違うところにも神様の真理があることを見ようとしなくなり、大切な神様の真理を見えなくしてしまうのです。
 イエスはヨルダン川の向こう側へ退きました。そこはイエスの活動の出発点であり、洗礼者ヨハネと出会った場所でした。そこにかつて洗礼者ヨハネの言葉を聞いた人々がやってきました。彼らはイエスの力ある業を見、ヨハネの言葉が真実であったことを悟り、イエスを神から遣わされた者と信じることができました。
 本日の物語には二種類の人々が登場します。イエスを神から遣わされた者と信じない人々と、信じた人々です。どこが違ったのでしょうか?それはおごり高ぶった心と素直にへり下った心の違いでした。ユダヤ人(おそらくファリサイ派の人々)は、とても真面目に聖書を学び実践する人たちでした。その自信がおごり高ぶりに繋がってしまったのでした。真面目だからこそ、一生懸命だからこそ陥る過ちがあること、神様の御業を見失うことがあることを自戒したいと思います。一方、イエスを信じることができた人々は、聖書に直接書いてはいませんが、へり下った、素直な心でイエスの言葉を聞き、その上で力ある業を見た人々であったのだと思います。そのような心のあり方がイエスを神から遣わされた者、メシアと信じることを可能とするのです。知識や能力、実績ではありません。そしてイエスをメシアと信じる者は、永遠の命、神との永遠の愛の交わりをいただくことができます。そのようなへり下った素直な心になるために、聖霊(神様の目に見えない力)の助けを祈り求めましょう。そして永遠の命の喜びへとつながる歩みを神との愛の交わりに生かされて歩んで参りましょう。
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2020年10月05日

9月27日 説教要旨

彼らに永遠の命を与える
2020年9月27日
聖霊降臨節第18主日・全召天者記念礼拝
ヨハネによる福音書第10章22-30節
牧師 木谷 誠

 9月の最終主日、私たちの今治教会は全召天者礼拝を守ります。141年の歴史の中でたくさんの兄弟姉妹が、今治教会につながり、信仰の道を歩み通されました。今治教会はキリストを礎とし、その上にたくさんの信仰の先輩たちの命が積み重ねられて、今があります。このような今治教会の歩みを振り返り、神様と信仰の先輩たちに心から感謝しつつ、聖書のメッセージを分かち合いたいと思います。
 ヨハネによる福音書、今回もユダヤ人たちとイエスのやりとりは噛み合わない、不毛なものになっています。イエスの言葉にいら立つユダヤ人たちは「もしメシアならはっきりそう言いなさい」と迫ります。これに対してイエスは、「私は数々の奇跡によってこれまで何度もメシアであることを証明しているが、それでもあなたたちは信じない。あなたたちはそもそも信じる気がないではないか」、と応えています。「見ないで信じる」信仰はもちろん一番立派なあるべき姿であると、福音書を読んでいてつくづく思います。しかし、「見て信じる」信仰もとても立派なのだと思うようになりました。なぜなら、人間の不信仰の現実は「見ても信じない」有様だからです。ユダヤ人たちは数々のイエスの奇跡を見ているはずですが、信じませんでした。このやりとりから、ユダヤ人だけでなく、人の心の頑なさはこれほど深刻であることが示されます。「見ても信じない」、これが不信仰の現実です。彼らはイエスを信頼していないのです。だから何を聞いても、何を見ても信じず、従おうとせず、「羊」になろうとしないのです。その原因は、ユダヤ人としての立場を守りたいという自己保身、妬み、奢り高ぶりでありました。しかしながら、そのような不信仰の現実の中から、イエスを信頼し、イエスに従う「羊」も現れてきたのです。そしてイエスはそのような羊たちに永遠の命を与えたのでした。
 今治教会の創立期、イエス・キリストを信じる人々は「耶蘇(やそ)」と呼ばれ、厳しい迫害、敵意を受けました。しかし、その一方で「羊」も多く現れ、そしてイエス・キリストに従い、信仰の良い証しをなしていったのでした。本日、全召天者礼拝に覚える兄弟姉妹は、まさしくイエス・キリストの「羊」として、多くの苦難の中で、羊飼いであるイエスの声を聞き分け、イエス・キリストに従い、良き証しの歩みをされました。イエスはこの人たちに永遠の命を与えられました。この永遠の命は、「不老不死」を意味するわけではありません。神との永遠の愛の交わり、死によってすら失われない永遠の愛の交わりを指しています。そしてこの永遠の命は私たちにも約束されています。この永遠の命の約束がもたらす希望を生ける者、死せる者全てで分かち合い、希望をもって、私たちもイエス・キリストの羊として歩みを全うしたいと思います。
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2020年09月28日

9月20日 説教要旨

声を知る

2020年9月20日 聖霊降臨節第17主日・創立記念礼拝
ヨハネによる福音書第10章1-6節 
牧師 木谷 誠

 私たちの今治教会は、創立141周年となりました。1879年9月21日、アッキンソン宣教師、新島襄を迎え、教会設立礼拝、横井時夫の牧師任職、按手礼が行われ、今治教会として歩みが始まりました。以来、今治教会は、今治のみならず、松山、東予地域の伝道の拠点となりました。また今治市の中心産業の担い手を多く生み出し、教育、福祉などを含めて、今治市の近代化に大きく貢献しました。そんな過去の歩みを導いてくださった神に感謝し、これから新しく歩み出す時、私たちは誰を信頼し、自分を委ね、導きとするのでしょうか?ヨハネによる福音書のメッセージを分かち合いたいと思います。
 ヨハネによる福音書において、イエスの言葉に多くの人が戸惑い、よく分かりませんでした。10章41節「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」というイエスの言葉もファリサイ派の人々にはわからなかったことでしょう。ファリサイ派の人々は、律法をよく学び、守っていました。だから自信がありました。自分たちは神をよくわかっている、「見えている」。他の人とは違う。「罪人」とは違うという自負があったことでしょう。
 だからイエスの力ある業や教えを聞いても、受け入れようとはしませんでした。先週の聖書箇所ヨハネによる福音書第8章46節「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。」とある通りです.ではなぜ、ファリサイ派の人々はイエスを受け入れなかったのでしょうか?それは彼らが知らず知らずのうちにおごり高ぶっていたからだと思います。自分たちは、清い者である、他の「罪人」たちとは違う。そのおごり高ぶりが、彼らに真理をもたらすイエスの言葉を受け入れ難くしていたのでしょう。しかし、神の御心はイエスを通して伝えられます。10章7節にある通り、イエスは「羊の門」であり、同時に「良い羊飼い」なのです。このイエスを通して、神は救いを伝えられます。そのイエスを受け入れない者は、羊の門から入ろうとしない盗人だと、イエスは言っているのです。
 ところで皆さんが羊だったら、自分を任せるのは、盗人でしょうか、それと羊飼いでしょうか?答えは明らかです。羊が羊飼いでななく、盗人に自分を任せてしまったら破滅です。あのイエスを裏切ったユダはその罪を後悔し、祭司長や長老たちに「私は罪を犯しました」と告白しました。その返事は「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」でした(マタイ27:4)。ユダは自殺しました。もうそれしかなくなってしまいます。イエスならどうだったでしょうか?「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(マルコ10:45)。」イエスは罪人の救いのために命を捧げられたのです。私たちはこの方によって救われました。誰を羊飼いにするかを間違えるとこれほどまで違うのです。
 創立記念日に際し、このヨハネによる福音書の物語私たちがまず教えられる大切な第一の事柄は謙遜です。思い上がってはなりません。思い上がりは大切なイエスの言葉から心を閉ざしてしまいます。そして大切な第二のことは、低い心でイエス・キリストを受け入れることです.イエス・キリストを「羊の門、良き羊飼い」として、受け入れ、素直にイエスの言葉に従う者となることです。
この方の導きなくして、正しい道を歩んでいけるほど、私たちは強くありません。そのことを覚え、導き手である羊飼イエス・キリストに聞きつつ歩んでまいりましょう.羊飼であるイエスは常に羊である私たちの名を呼んで導き出そうとしてくださっています。その声に常に聞き従い、イエスの声を知るものとして歩みましょう。
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2020年09月23日

9月13日 説教要旨

偽り者の言い分

2020年9月13日 聖霊降臨節第16主日
ヨハネによる福音書第8章37-47節 
伝道師 𠮷川 庸介

 本日の聖書箇所には、「偽り者」という単語が出てきますが、この言葉を直訳すると「嘘をいう人」であります。彼らに対し、イエスは「あなたたちは神に属していない」といった厳しい言葉を投げかけ痛烈に批判しています。とはいえ、偽り者と呼ばれる人たちは意図的に嘘を言うのではなく、彼らなりの信念をもってイエスの言うところに反対しているのです。そんな彼らの信念の、一体どこが偽りありと言われているのかを明らかにし、神が求められることを読み解いて参りたいと思います。
 偽り者と呼ばれた人々は、かつて神より祝福されたアブラハムの子孫であると語り、また姦淫により生まれたのではないとも語っています。これらの言葉は、先祖がアブラハムとの誇り、そして先祖代々律法を守ってきたとの自負を読み取れます。ゆえに、イエスによる罪からの解放、真理を理解しない、といった言葉に対し、我々は十分に条件を満たす者である、という思いが前面に押し出され、イエスの言葉に反発を覚えているのです。しかし、このような「偽り者」達の自分への理解というものは、やはり誤りなのです。イエスが罪とか、真理と言われることの根本には罪についての理解が付随します。罪とは、律法を破り、犯罪に手を染めてしまうことを指すのではありません。ここで言われる罪とは、神に従わないことを指します。そもそも、神に従うとは一体どのような意味でありましょうか。
 それは、「ただ」律法に従うことではないことであります。律法に従うとは本来、自分とはどうしようもなく利己的であるとか、過ちを犯す弱い存在であることを自覚し、悔いながら神にこうべを垂れ、従うことを指します。律法に対し、形式的に従っているだけの状態や、自分はなんら罪に汚れる「行為」はしていないという点を強調することは、全く論点が異なっているのです。罪を犯さないことの始まりは、倫理的に正しいか、ということでしょう。偽り者達はそれは守れていたかもしれません。しかし、もし罰せられる法律がなければ、彼らはそれを守っていたことでしょうか。また、心に抱くことすらもあってはならぬこと、例えば相手を憎むことが無いと言い切り、律法に書かれていることを守っていると、神を前にして背筋を伸ばし、自らの潔白を誓えるのでしょうか。少なくとも私などは、口が裂けたとしても誓うことなどはできないと言わざるを得ません。
 かつて律法を課した神は、人が多くの場合守りきれないことをよくご存じでありました。ゆえにイエス、という方を私たちのために送られたのです。イエスが十字架にかけられたのは、まさに人の罪―心の汚れ、傲慢、己を偽る心―のためでした。このように、あらゆる汚れを負わされながらも、イエスは私たちに向かって、このあらゆる汚れを背負い、私はお前たちをゆるすと語り、自らの運命を全て受け入れて死なれたのであります。
 己の罪深さを認めることは計り知れない難しさがあるものです。それゆえに、時には神の真意はこうあって欲しいとの願いを抱えることがあります。気がつかないうちに、神が願われていた真意をねじ曲げて偽りを言う者−すなわち、偽り者−となるのです。しかし、己の至らなさを認めることなく形式的に良いとされること、すなわち、ただ律法に従うことを行っていた人々をイエスは非難されたことを、そこに神の真意があることを心に刻み、己を振り返りつつ歩む者でありたいと思うのです。
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2020年09月13日

9月6日 説教要旨

光の子として歩みなさい

2020年9月6日
聖霊降臨節第15主日(新しい人間)
エフェソの信徒への手紙5章11-20節
牧師 木谷 誠

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ5:8)との言葉はとても大切です。神様に背き、罪に縛られ、暗闇にいた私たちが、イエス・キリストにより、罪のゆるしを受け、神様との愛の交わりに入れられました。この神様の恵に感謝し、応えて生きるにはどうしたら良いでしょうか?
 大きく二つに分けて言うことができます。一つは「神様に喜ばれるように」生きる、一つはその裏返しとして「神様に悲しまれないように」生きるということです。前者は善(神様に喜ばれること)を行う生き方、後者は悪(神様に喜ばれないこと)を行わない生き方です。10節では、主に喜んでいただくために、自分の思いと言葉と行い(生き方全体)を吟味しなさいと勧めます。続いて11節では、悪から離れることが勧められます。悪の誘惑はとても恐ろしいものです。常に主に助けを求めなければなりません。そしてさらに悪を行う人を見たならば、その罪と過ちを指摘してあげなさいと勧められます。明るみに出しなさいとは、人前でその人の罪を暴き出しなさいということを必ずしも意味しません。「明るみに出しなさい」とは神様のみ前に明らかにしなさいということです。その人の行動や思いや言葉を、神様の御心に照らして吟味するようにしなさい。その人に考えてもらいなさいということです。そしてその人が自分で罪に気付いて悔い改めることができるように導いてあげなさいと勧められます。これは勇気のいることですが、大切です。自分では気づかないうちに、罪と過ちを犯していることがあるからです。兄弟姉妹からの「耳に痛い言葉」を素直に受け止めることもとても大切です。そのようにして私たちは、罪から離れ、闇から光へと帰っていくことができるのです。
 さらに神様に喜んでいただく者として歩むためには、賢い者となることが必要です。賢い者とは?賢い者とは勉強ができる者とか頭が良い者ではありません。「知恵ある者」のことです。そして真の知恵ある者とは、常に主を畏れる者のことです。「主を畏れることは知恵の初め。(箴言1章7節)」。とある通りです。では「畏れる」とは?ここで「恐れる」ではなく、「畏れる」という字が用いられていることに注目したいと思います。「恐れる」という時、そこにあるのは恐怖で縛られたとても貧しい関係です。信頼感もなければ親しみも愛も存在しません。しかし、「畏れる」という意味はもっと豊かです。相手を敬い、信頼し、その導きに委ねる、親しみをもって呼びかける、常に心に留める。そのような意味で主を「畏れる」者こそ、真の知恵ある者、賢い者なのです。そして主を「畏れ」、敬い、常に心に留め、主に呼びかける中で、主は聖霊を私たちにくださいます。この聖霊に満たされる時、私たちは恵に満たされ、心燃やされて、主をほめたたえ、感謝して歩んでいけるのです。
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