2020年07月26日

7月19日 説教要旨

杖に導かれて

2020年7月19日 聖霊降臨節第8主日・(復活の希望)
ミカ書 第7章14−20節
伝道師 𠮷川 庸介

 ある学者曰く、人という生き物は、自分で考えるより人に指示されることを楽に思うものであり、カリスマを持つ人が上に立つことは、人が絶対的な支配者や、指導者を求めるからである、とのことです。絶対的な権力者に従うことは、自分に利益をもたらすからか、あるいは恐怖によるところが大きいのでしょう。それは非常に分かりやすい理由です。では、主に従うとは何でありましょう。自分に利益を与えると見据えたから、あるいは恐れからこうべを垂れて、従うのでしょうか。
 ミカ書の7章から私たちが想像させられるのは、収穫物全てを奪われた畑の光景、自分が欲してやまない収穫物は、もはや口にすることは叶わず、誰もが人を蹴落とそうとする、安寧などない世界であるという事実です。しかしミカは、その事実を受け入れ、挫けようとはしません。苦しみを受けるのは、自分が神を信じることができず、心が離れてしまったからである。ゆえに、この苦しみを甘んじて受けよう、主はかならずやこの小さく罪深い自分をかえりみてくださると告白します。
 ミカの言葉は、想像することが難しいものです。ミカの故郷はアッシリアという世界帝国に蹂躙されていました。自分の故郷を守ってくれなかった神に対し、普通であれば無用の長物と切り捨てそうなものです。私たちも、それまで信じていたものが何の役にも立たないと思った時、急に距離を感じ、熱が冷めてしまいがちなことを思い浮かべると、ミカが祈ることをやめなかった事実は、どこか距離を置いて見てしまいます。
ミカの姿を周囲の人たちもまた、奇異なものを見るように眺めたことでしょう。その目に晒されながら、ミカは絞り出すように信仰を告白します。あなたの杖をもって導いてください、と。これは羊が先導する人に付いていくのと同じように、神を先導者として人がついていくことを、神が前に立って作られる道を歩むことを願うと切々と語るのです。
 その祈りに対し、神から必ずや救い出すという約束の言葉が臨みます。そこまで見ると、あぁ、ミカの信仰が報われた、このように信仰を持ち続けることは無駄ではないのだ、とも思います。しかし、またここで考えさせられるのです。もし神からの応答がなければ、どうであったのか。あくまで神からの応答があったからミカの信仰は美しいもののように描かれているが、無かった時にはどう解釈すべきか。私たちは目に見えるものが与えられることを前提に神を信じているのだろうか、と。
 神に導かれる、神に付いていくということは、目に見える利益が与えられるからではありません。むしろ、利益を前提とするなら神を信じる必要性はありませんし、権力者に従えば良いのです。私たちが神を信じるのは、マタイやルカの福音書で、百匹から迷い出た一匹を捨ておかずに追いかけ、見つけて抱きしめ、離すまいとするその神の優しさと暖かさを信じるからです。神が掲げる杖に従うということは、最後まで私たちに寄り添おうとする神の慈しみを喜び、そして実感して歩むことです。時に挫けることもありましょうが、神の慈しみを思いつつ、祈りながら歩む日々を歩んで参りたいと思います。
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2020年07月19日

7月12日 説教要旨

命の回復

2020年7月12日 聖霊降臨節第7主日・(生命の回復)
ホセア書 第14章2−8節
牧師 木谷 誠
 
 イエスという方、「救い主」、「真の愛の人」、確かにそうなのですが、福音書の物語を読んでいるとそれだけではなく、かなり変わった人という印象もあります。ユダヤ人に対する歯に衣着せぬ厳しい批判、あえて弱い者の立場に立った行動の故に、イエスを慕う人も多かったでしょうが、それと同時に敵も多かっただろうなと思います。実際、イエスが十字架にかけられてしまった時には、周りは敵ばかりになってしまっていました。
 さらにヨハネによる福音書を読んでいますと、イエスという方を「謎の人」と呼びたくなります。イエスの言葉に人々も弟子たちも戸惑うからです。ある時、ニコデモに対して「新しく生まれる」という言葉で戸惑わせました。またある時には「私のいるところにあなたがたは来ることができない」と言いました。それを聞いた人々は「自殺でもするのだろうか」と戸惑いました。そのようにイエスの言葉は時として人々には謎のように聞こえていたと思います。
その意味でイエスは、弟子たちや多くの人々にとって、「謎の人」というイメージがあったことでしょう。
 本日の聖書箇所でもイエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われました。弟子たちからしますと「またか」と思ったかも知れません。ここでもイエスの言葉は、聞く人を戸惑わせます。でも、イエスは謎めいた言葉を語る時にはその後にきちんと解説してくださいます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」と言うのです。この意味を考えてみたいと思います。信仰生活は理論ばかりではありません。頭の中で考えてばかりでは信仰生活の真の喜びはわかりません。神様の御心を求め、実際に実践することが必要です。
 神様の御心とは何か、それを知るためには、それを深く心に刻み込むためには、聖書を読み、祈ることが必要です。兄弟姉妹とともに神様を礼拝し、集会を守り、神様の愛をいただいくこと、それを兄弟姉妹と分かち合うことが必要です。そして神様の愛を喜び、神様を愛し、神様に喜ばれることを実際にやってみるのです。その中で神様の御心が示されます。聖霊が私たちの心に働きかけて示してくださいます。それをどんなに小さなことでもやってみましょう。そのように実践する生活の中で、豊かな手応え、喜びが与えられます。その実践の喜びによって信仰生活は強められ、励まされ、育てられます。イエスはそれを言いたかったのです。日々の生活の中で、神様に喜ばれることは何であるかを常に考え、それを行う。どんなに小さくても良いからできることを、神様の御心だと信じて行うこと。そして常にそれを問い続けること。その営みの中で人は豊かに養われる。さらにその豊かな喜びを周りの人と分かち合うことができるとイエスは言われます。これはやってみて、経験してみなければ分かりません。
 自分が神様の御心だと信じることを思い切ってやってみましょう。そこから神様の御心は何かを問い続ける旅路が始まります。問い続ける旅路です。これで良いということはありません。日々繰り返し、神様の御心を行い続ける旅路です。そして神様の御心を行う旅路です。つきることのない喜びの旅路であり、それは神様の身元へと続いています。そんな神様の御心を問い続ける旅、行い続ける旅路をご一緒に歩んで参りましょう。
(祈り)
神様、私たちに御心をお示しください。そしてそれをやってみる勇気と力をください。
アーメン。
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2020年07月12日

7月5日 説教要旨

謎の人 問い続ける旅路

2020年7月5日 聖霊降臨節第6主日・(異邦人の救い)
ヨハネによる福音書 第4章27-42節
牧師 木谷 誠

 イエスという方、「救い主」、「真の愛の人」、確かにそうなのですが、福音書の物語を読んでいるとそれだけではなく、かなり変わった人という印象もあります。ユダヤ人に対する歯に衣着せぬ厳しい批判、あえて弱い者の立場に立った行動の故に、イエスを慕う人も多かったでしょうが、それと同時に敵も多かっただろうなと思います。実際、イエスが十字架にかけられてしまった時には、周りは敵ばかりになってしまっていました。
さらにヨハネによる福音書を読んでいますと、イエスという方を「謎の人」と呼びたくなります。イエスの言葉に人々も弟子たちも戸惑うからです。ある時、ニコデモに対して「新しく生まれる」という言葉で戸惑わせました。またある時には「私のいるところにあなたがたは来ることができない」と言いました。それを聞いた人々は「自殺でもするのだろうか」と戸惑いました。そのようにイエスの言葉は時として人々には謎のように聞こえていたと思います。
その意味でイエスは、弟子たちや多くの人々にとって、「謎の人」というイメージがあったことでしょう。
 本日の聖書箇所でもイエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われました。弟子たちからしますと「またか」と思ったかも知れません。ここでもイエスの言葉は、聞く人を戸惑わせます。でも、イエスは謎めいた言葉を語る時にはその後にきちんと解説してくださいます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」と言うのです。
この意味を考えてみたいと思います。信仰生活は理論ばかりではありません。頭の中で考えてばかりでは信仰生活の真の喜びはわかりません。神様の御心を求め、実際に実践することが必要です。
 神様の御心とは何か、それを知るためには、それを深く心に刻み込むためには、聖書を読み、祈ることが必要です。兄弟姉妹とともに神様を礼拝し、集会を守り、神様の愛をいただいくこと、それを兄弟姉妹と分かち合うことが必要です。そして神様の愛を喜び、神様を愛し、神様に喜ばれることを実際にやってみるのです。その中で神様の御心が示されます。聖霊が私たちの心に働きかけて示してくださいます。それをどんなに小さなことでもやってみましょう。そのように実践する生活の中で、豊かな手応え、喜びが与えられます。その実践の喜びによって信仰生活は強められ、励まされ、育てられます。イエスはそれを言いたかったのです。日々の生活の中で、神様に喜ばれることは何であるかを常に考え、それを行う。どんなに小さくても良いからできることを、神様の御心だと信じて行うこと。そして常にそれを問い続けること。その営みの中で人は豊かに養われる。さらにその豊かな喜びを周りの人と分かち合うことができるとイエスは言われます。これはやってみて、経験してみなければ分かりません。
 自分が神様の御心だと信じることを思い切ってやってみましょう。そこから神様の御心は何かを問い続ける旅路が始まります。問い続ける旅路です。これで良いということはありません。日々繰り返し、神様の御心を行い続ける旅路です。そして神様の御心を行う旅路です。つきることのない喜びの旅路であり、それは神様の身元へと続いています。そんな神様の御心を問い続ける旅、行い続ける旅路をご一緒に歩んで参りましょう。
(祈り)
神様、私たちに御心をお示しください。そしてそれをやってみる勇気と力をください。
アーメン。
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