2020年10月27日

10月18日 説教要旨

 この希望を胸にして

2020年10月18日 聖霊降臨節第21主日・
(天国に市民権を持つ者)
エレミヤ書第29章4-14節
伝道師 𠮷川 庸介

 本日の聖書箇所で語られる、イスラエルの人々は戦争に負け、捕囚を経験します。この捕囚は、監視はありましたが、けっして虐待や暴力によって虐げられていた、ということはなかったようです。それでも生活は一変し、真綿で首を絞められるような苦しみを味わっていたことでしょう。コロナ禍である今、新しい生活様式となり、少しずつ鬱屈とさせられる今の状況を彷彿とさせられるように思います。
 そんな捕囚の民に対し、神は住んでいる街のために祈り、平和の実現に尽力せよ、というのです。すなわち、神は今の状況を受け入れ、それこそが日常と思えというのです。なかなかに、納得がいきにくい言葉ではないでしょうか。しかも、これらは全て計画であり、「お前たちに将来と希望を与えるものだから」と言われれば、神はなぜ私たちをこのような目にあわせるのだろうか、と怒りを抱きそうであり、その将来と希望は、今、求めて止まないものだと、叫びたくもなります。ですが、その叫びだけに止まるのではなく、なにゆえこんなことを語りかけてくるのかと、その真意はどこかを見る必要があります。それは、次のようなことでありましょう。
 一つには、今の状況を憎みながら過ごすのではなく、それを抑え込み、せめてできることを行いなさいと教えているのです。「町の平和を実現するように」との言葉には、やがてくる日に対する備えをしなさいと優しく語る、言うならば、親が子供にいつも言うような口ぶりで民を気遣う神の姿を見ます。
 ですがもう一つ、ハッとさせられることがございます。それは、神を求めるということは、自分が望む安穏とした状況下でなければできないことなのか、ということであります。神は、今いる街の平安を望め、そしてそのために私に祈れ、と言われますが、望んだ通りの日常でなければ、私たちは神を求めようとも思わないのか、そうしない神に祈る意味は本当にないのか?という問いが出てくるのです。
 その問いへの答えは、どのような場所であっても、状況が一変した中でも、変わらないものが確かにある。それは、私たちのことをいつも考え、声に応えようとしてくださるのが神であること、私たち人にできることは祈り、神を求めることである、ということです。この祈りなさい、求めなさいとの言葉は、決してその場しのぎのような言葉ではありません。「お前たちが心を尽くして私を求めるならば、必ず私と出会う」とあるように、祈りの果てに私たちの前に現れ、真意を悟らせて喜びをもたらすのだと、聖書を通し教えてくださっているのではないでしょうか。
 本日の箇所は、紛れもなく私たちに希望を与える箇所であります。希望と言いますと、モンテ・クリスト伯の「待て、しかして希望せよ」という言葉を思い出します。この言葉の前には「主が人間に将来のことをわからせてくれるその日まで」とありますが、単に困難や逆境にあっても諦めない、というだけではなく、「神」が介在する希望を語っているのです。己には決して分からないところに神の働きというものがあって、それを悟らせてくれるその日まで希望を持って待とうではないか、というのです。
 希望とは、たとえどんな日常が変わろうと、いかなる時でも動じず、変化せずそこにあるものが神であるのだから、今ある状況の中で祈り求めることです。なぜなら、必ずや最後に神がその意味を悟らせてくれるからです。苦難の中でありますが、その中でなおのこといっそう、神を求め祈るものでありたいと思います。
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2020年10月20日

10月11日 説教要旨

生ける神を礼拝するために、わたしたちの良心を清めてくださる方

2020年10月11日 聖霊降臨節第20主日・
創立記念特別伝道礼拝・神学校日・
伝道献身者奨励日(永遠の住み家)
ヘブライ人への手紙第9章6-14節
牧師 小原 克博

 この聖書箇所は良心とは何か、また、良心とキリストの十字架はどのような関係にあるのかを考える上で重要な箇所です。また、「ヘブライ人への手紙」全体の内容を考えると、この手紙は、コロナ時代において私たちが向き合うべき課題を考えるために、非常に示唆的な内容を含んでいることに気づかされます。端的に言えば、この手紙は、古い時代から新しい時代への変化を問うており、そのことは「改革の時」(9:10)という表現にも示されています。
 新約聖書の諸文書が書かれた時代、地中海世界では、神殿祭儀や律法(ユダヤ教の伝統)をめぐり多様な立場の人がいました。多くの教会は異邦人とユダヤ人が入り交じっていました。また、同じユダヤ人の間においても、伝統の解釈をめぐり意見の相違がありました。
 新約聖書、特に手紙類を読むときには、時代背景として教会内部においても数々の緊張関係があったことに注意を向けることが大切です。現代の私たちは、聖書を心の指針、信仰の糧として読みますが、新約文書の多くは具体的な問題を解決するための指南書としての側面を持っています。パウロの手紙に一貫して見られる緊張関係は、ユダヤ人と異邦人、律法と福音の関係です。また、ヘブライ人への手紙においては、(旧約)聖書の祭儀と福音の関係が問われています。この手紙は、イエスの生涯・十字架・復活を、福音書とは異なる形で語り直しています。聖書の祭儀を中心にイエスを語っている非常にユニークな手紙です。そこでは、自らを犠牲として捧げ、神に至る道を開いた大祭司イエスが主題とされています。
 犠牲の祭儀は聖書に繰り返し出てきますが、現代の私たちから見ると、いかにも大昔のことで、私たちには関係ないと思うかもしれません。しかし、犠牲を捧げる祭儀はなくなっても、人に犠牲を強いる国家や社会は今に至るまで続いており、犠牲は繰り返し求められるという点で、決して過去の話ではないのです。
 キリスト教はその最初期から犠牲を捧げない宗教として出発しましたが、それは当時においては異例なことでした。教会の礼拝は、当時の宗教儀礼や宗教そのものに対する「挑戦」となっていました。それは礼拝「改革」であり、宗教「改革」でした(9:10参照)。
 供え物が献げられても良心が完全にならないこと(9:9)、キリストの血によってこそ、良心は清められ、神を礼拝できるようになること(9:14)が記されており、これが「改革」の核心であると言ってよいでしょう。加えて、この手紙でもっとも大事なメッセージは、繰り返され続けてきた犠牲の祭儀の完成としてイエスの十字架があるということ、それゆえ、もはや犠牲を献げる必要はないということです(10:11-13)。
 長い歴史の中で、多くの宗教は人々の犠牲を正当化し、犠牲を求めてきました。宗教が定めたルールを守るのが良心の働きでした。しかし、それは不完全な良心であることを本日の聖書箇所は示しています。キリストの血による贖いは「良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせる」(9:14)とあります。この世には、なおも無数の犠牲が存在しています。その現実から目をそらすことなく、キリストによって清められた良心を発揮することによって、私たちは大祭司イエスの招きに応えることができるのです。
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2020年10月11日

10月4日 説教要旨

イエスを信じるために

2020年10月4日 聖霊降臨節第19主日
世界聖餐日、世界宣教の日(神の富と知恵)
ヨハネによる福音書第10章31-42節
牧師 木谷 誠

 ユダヤ人たちはイエスを石で撃ち殺そうとします。30節の「私と父とは一つである」という言葉を聞いて、ユダヤ人たちはイエスが神を冒瀆していると理解したからです。「神を冒涜する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。(レビ記24章15-16節)」とある通りです。ユダヤ人たちに対して、イエスは、旧約聖書の中で神に仕える人々を「神々、神の子」と呼ぶ例(詩編82編6節)を引用しています。イエスは、自分も神に遣わされた者である故に自分を「神の子」であると言っているのであって、決して神を冒瀆しているのではないのです。その上でユダヤ人たちに対して、イエスは自分を信じなくても良いが、自分の業が神の働きだと信じなさいと求めます。イエスの業を信じるならば、それが神の業であると認めざるを得ません。そうなるとそれを行うイエスが神から遣わされた者、そして神の子であることを認めざるを得なくなるのです。しかし、ユダヤ人たちにとって、それを認めたら自分たちの信望をイエスに奪われることになります。イエスが神の子であることは、自分達の立場を脅かす「不都合な真実」です。故に彼らは信じようとせず、イエスを石で撃ち殺そうとします。それからもう一つ、彼らがイエスを信じない原因は彼らのおごり高ぶり、頑なさです。「イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネによる福音書第9章42節)とある通りです。「見える」、「わかっている」というユダヤ人たちの自信は、おごり高ぶりとなっていました。そして自分の考え、思いは決して絶対的なものではなく、それと違うところにも神様の真理があることを見ようとしなくなり、大切な神様の真理を見えなくしてしまうのです。
 イエスはヨルダン川の向こう側へ退きました。そこはイエスの活動の出発点であり、洗礼者ヨハネと出会った場所でした。そこにかつて洗礼者ヨハネの言葉を聞いた人々がやってきました。彼らはイエスの力ある業を見、ヨハネの言葉が真実であったことを悟り、イエスを神から遣わされた者と信じることができました。
 本日の物語には二種類の人々が登場します。イエスを神から遣わされた者と信じない人々と、信じた人々です。どこが違ったのでしょうか?それはおごり高ぶった心と素直にへり下った心の違いでした。ユダヤ人(おそらくファリサイ派の人々)は、とても真面目に聖書を学び実践する人たちでした。その自信がおごり高ぶりに繋がってしまったのでした。真面目だからこそ、一生懸命だからこそ陥る過ちがあること、神様の御業を見失うことがあることを自戒したいと思います。一方、イエスを信じることができた人々は、聖書に直接書いてはいませんが、へり下った、素直な心でイエスの言葉を聞き、その上で力ある業を見た人々であったのだと思います。そのような心のあり方がイエスを神から遣わされた者、メシアと信じることを可能とするのです。知識や能力、実績ではありません。そしてイエスをメシアと信じる者は、永遠の命、神との永遠の愛の交わりをいただくことができます。そのようなへり下った素直な心になるために、聖霊(神様の目に見えない力)の助けを祈り求めましょう。そして永遠の命の喜びへとつながる歩みを神との愛の交わりに生かされて歩んで参りましょう。
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