2020年11月22日

11月15日 説教要旨

神が求められることを聞いてみようか

2020年11月15日 降誕前第6主日
(救いの約束・モーセ)
マタイによる福音書第5章38-48節
伝道師 𠮷川 庸介

 「目には目を、歯には歯を」は、出エジプト記、申命記において「悪を根絶やしにするため」に正しいと記されています。悪に対して報復することで、悪を消し去ることを目的としているのですが、今を生きる私たちも、こういった考えを漠然であったとしても、受け入れて生きていることでしょう。しかし、イエス・キリストが命じられるのはその考えをひっくり返すもの、すなわち悪に対して、報復ではなく愛をもって受け入れよ、というものです。
 38-42節にある右の頬を打たれる、下着を取られる、1ミリオンを強いる、といった言葉はこの聖書が記された時代を反映しています。イエスの言葉を聞く多くの人は、ローマ帝国の支配下にある人でした。彼らはローマ市民から時に理不尽な暴力に晒され、物を奪われ、労働を強いられる、ということがありました。そんな理不尽を行う者に、左の頬、上着を差し出し、2ミリオンを共に行くとは、理不尽に対して報復ではなく、相手を受け入れ、求めるもの以上のものを与えて応えよ、と言っているのです。
 よくよく読んでみると、相手が自分に接してくる態度が、暴力、強奪、労役から、強制から求めるように、奪うことから借りようとする心へと移り変わっていることに気がつきます。これは、相手ではなく自分が変わることが大切であり、相手を受け入れようとする心は、相手をも変えるのだと言えるやもしれません。そう言われるなら、だからこそ相手を受け入れようとする心は大切なのだとも思えます。
 とはいえ、愛をもって受け入れる、ということがどれほど難しいことでしょうか。最後に、「あなた方の天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とありますが、そんなことはできるはずがないと言いたくもなります。あるいは悪には愛を、敵には寛大な心を、というのはほとんど通用しないし、その生き様は奪われる生き方に他ならないと反論するかもしれません。この生き方はいずれ心が擦り切れてゆき、隣人さえも愛せない生き様へと変わるに違いないことでしょうが、それが分かったとしてもできないのが人間なのです。
 今一度、「完全」と言われる言葉を見返したいと思います。実はこの「完全」とは、完全という意味とは別に「成熟」といった意味も含まれています。すなわち、「成長し、熟すことで完全となれる」と教えているのではないでしょうか。神が、そしてその独り子イエス求めることは、初めから完全なものとしてあるのではなく「成熟」にとあるよう、敵を愛そうとするする第一歩を踏み出し、そこから成長していくことであるのです。
 この言葉をただ語るだけではなく、共に背負おうとする覚悟をもって、イエスは私たちに与えられました。彼は神の子であったにも関わらず、人の子として言われのない罪を負うことを決められました。彼のその姿勢は、私たちに、「憎むものを愛そうとするのは苦しいだろうが、私もその苦しさを味わい、背負おうではないか」との覚悟と、人の子である自分ができたことは、お前たちもできるのだと、身を以て教えてくださっているのです。
 人を恨みがましく思うことは、いつでもあることでしょう。しかしそんな時、イエスがその思いを共に背負おうとしてくださっていることを励みとし、神は私たちが完全なる姿に歩もうと努力をする者だと信じていること思い、神が求められる姿に近づけるよう歩んで参りたいと思います。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 23:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月16日

11月8日 説教要旨

呼びかけに応えて

2020年11月8日 降誕前第7主日
(神の民の選び・アブラハム)
創世記第13章1-18節
牧師 木谷 誠

 先週の主日のテーマは「堕落」でした。しかし、神様の救いの後の計画は、そこで終わりません。続きがあります。罪を犯し、背いた人間に対して、神様は変わらず恵み深いのです。
 神様はアブラム(後のアブラハム)に呼びかけ、旅立ちを命じます。それは行く先の分からない旅でした。しかし、アブラムは、神様の約束の言葉を信じて七十歳という高齢にもかかわらず、生まれ故郷を捨てて旅立ちます。この信仰の故に彼はイスラエル民族の「父」と呼ばれるのです。
 しかし、アブラムも決して完璧な人間ではありません。旅の途中、エジプトでは、妻サラを妹と嘘をついて、エジプト王に取られてしまいそうになりました。圧倒的なエジプト王の権力を見て、不安になり、神様の守りを信じることがでなかったのです。そして自分の知恵に頼ったのでした。その時は、サラを憐んでくださった神様の恵みで危ないところを救われました。
 今日の物語はその続きです。旅を続ける中で、アブラムと甥のロトは、共にいることが難しくなりました。お互いの財産が多すぎて、家畜を維持するために十分な水を用意することが難しくなったのです。そこでアブラムは、ロトと相談して、それぞれ別々に住むこととしました。叔父であり、年上であるアブラムが自分の住むところを先に選んでも良かったのでしょう。しかし、アブラムは甥のロトに選ぶ権利を譲りました。自分よりも愛するロトのことを思いやったのでした。そしてそれが神様の喜ばれることと信じたのです。そして自分たちのことは、神様が必ず守ってくださると信じたのです。以前にエジプトで行ってしまった様な過ちを今度はすることはありませんでした。人間の知恵ではなく、神様のお守りを信じたのです。
 ロトは「目を上げて」豊かな土地を選びました。目を上げた時、何が見えるか、それはその人が何を大切にしているかということを意味しています。アブラムは「目を上げて」神様の約束、神様のお守りを見ました。ロトは自分の財産を守ることしか見えませんでした。そしてロトは豊かな土地を選びました。しかし、それは悪事を働く人がたくさん住む町だったのです。アブラムは豊かな土地はロトに譲り、神様の約束だけを信じて、カナンの地に入りました。そのようなアブラムに対して、神様は東西南北、見渡す限りの土地を与え、子孫を増し加えるという祝福を与えました。神様は豊かな土地を与えるだけでなく、すでに老人で、子どものいないアブラムにたくさんの子孫を与えると約束されました。神様は、約束を破ることはありません。人間の信頼を裏切ることはありません。それどころか、神様を信じるものに対して、人間の想像を超える大きな恵みをくださる方なのです。
 そんな神様の祝福に対して、アブラムは礼拝をささげて応えました。神様の恵み、神様の祝福に対する最も良い応えは礼拝です。神様は、人間を愛しており、神様に応え、神様との交わりを生きる存在として造られました。それゆえに神様は礼拝という形でなされる人間からの応答を喜ばれます。これはいつの時代も変わりません。
 私たちにも神様は祝福を約束してくださっています。この祝福の約束を信じて、歩んで参りましょう。神様はそんな私たちの信頼に対して「倍返し」以上の恵みで応えてくださいます。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 22:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月09日

11月1日 説教要旨

罪の根っこにあるもの

2020年11月1日 降誕前第8主日(堕落)
イザヤ書第44章6-17節
牧師 木谷 誠

H.J.イーヴァントという人が「ルターの信仰論」という本を書いています。この本を訳した竹原創一さんは、私が学生時代に室町教会におりました頃、一緒でした。竹原さんは、ちょうどスイス留学から帰って来て、それはそれは素晴らしい学者さんでした。ドイツ語が分からない時はいつも教えていただいたことを思い出します。その本の中で、ルターの信仰の出発点は「神を義とすること」とあります。なんだか「はてな?どういうことだろう?」と思ってしまいます。これは「神が神であることを認めること」と言うこともできます。ルターは十戒の第一の戒め、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」こそ最も大切な戒めであると言います。この戒めの前には「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」とあります。この神がイスラエルの神であって、他に神があってはならないと言うのです。
今日のイザヤ書第44章6-8節は、そのことをもう少し詳しく言っています。神はイスラエルの王である。神はイスラエルを贖う方である。すなわちイスラエルを奴隷から解放された方、イスラエルを救われた方である。この方のみが神である。他に神はない。他を神としてはならないと言っているのです。さらに言えばこの神のみが、イスラエルを愛し、導き、守られる方なのです。
 このイスラエルの神を信じ、この方に従う。この方に自分の人生を預ける。自分ではなく、神が中心であること。それがこのイザヤ書44章6-8節の意味であり、十戒の第一の戒めの意味です。そして罪とはこの第一の戒めに反対することなのです。
 44章9節-17節には偶像礼拝の様子が書かれています。高校生の頃、交換講壇でおいでになった先生がイザヤ書40章で説教され、とても感動しました。それをきっかけにイザヤ書40章から読みました。この44章を読んでとても印象が強かったです。偶像礼拝の愚かさを、とても鋭く、皮肉たっぷりに描いています。ユーモアも感じられて、思わず苦笑いしてしまいます。自分たちの手で作った像には、イスラエルの神のような救う力はありません。この人の「神」はイスラエルの神ではなく、「自分」なのです。自分が一番、神様は何番目?生活の中で、いつでも神ではなく、自分の都合に合わせて、残り物で作った偶像は、自分の欲望を満たすための道具でしかないのです。神を信頼しない、神の導きに従わない、神の御心を第一にしないで自分の都合を第一にする、そのような心のあり方が罪なのです。石や木で作った像を神として拝まないから偶像礼拝をしていないことにはなりません。偶像礼拝の誘惑は実に巧妙に私たちの心に入り込んでいます。神以外のものを神とする。神以外のものに従うことが「偶像礼拝」です。神を忘れ、自分の能力、経済力、人脈等、神以外のものに頼る時、私たちは神から離れ、神に背いて罪に陥るのです。自分を本当に愛して、共にいて救う方を常にしっかりと見据えていたいものです。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 23:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする