2020年11月09日

11月1日 説教要旨

罪の根っこにあるもの

2020年11月1日 降誕前第8主日(堕落)
イザヤ書第44章6-17節
牧師 木谷 誠

H.J.イーヴァントという人が「ルターの信仰論」という本を書いています。この本を訳した竹原創一さんは、私が学生時代に室町教会におりました頃、一緒でした。竹原さんは、ちょうどスイス留学から帰って来て、それはそれは素晴らしい学者さんでした。ドイツ語が分からない時はいつも教えていただいたことを思い出します。その本の中で、ルターの信仰の出発点は「神を義とすること」とあります。なんだか「はてな?どういうことだろう?」と思ってしまいます。これは「神が神であることを認めること」と言うこともできます。ルターは十戒の第一の戒め、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」こそ最も大切な戒めであると言います。この戒めの前には「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」とあります。この神がイスラエルの神であって、他に神があってはならないと言うのです。
今日のイザヤ書第44章6-8節は、そのことをもう少し詳しく言っています。神はイスラエルの王である。神はイスラエルを贖う方である。すなわちイスラエルを奴隷から解放された方、イスラエルを救われた方である。この方のみが神である。他に神はない。他を神としてはならないと言っているのです。さらに言えばこの神のみが、イスラエルを愛し、導き、守られる方なのです。
 このイスラエルの神を信じ、この方に従う。この方に自分の人生を預ける。自分ではなく、神が中心であること。それがこのイザヤ書44章6-8節の意味であり、十戒の第一の戒めの意味です。そして罪とはこの第一の戒めに反対することなのです。
 44章9節-17節には偶像礼拝の様子が書かれています。高校生の頃、交換講壇でおいでになった先生がイザヤ書40章で説教され、とても感動しました。それをきっかけにイザヤ書40章から読みました。この44章を読んでとても印象が強かったです。偶像礼拝の愚かさを、とても鋭く、皮肉たっぷりに描いています。ユーモアも感じられて、思わず苦笑いしてしまいます。自分たちの手で作った像には、イスラエルの神のような救う力はありません。この人の「神」はイスラエルの神ではなく、「自分」なのです。自分が一番、神様は何番目?生活の中で、いつでも神ではなく、自分の都合に合わせて、残り物で作った偶像は、自分の欲望を満たすための道具でしかないのです。神を信頼しない、神の導きに従わない、神の御心を第一にしないで自分の都合を第一にする、そのような心のあり方が罪なのです。石や木で作った像を神として拝まないから偶像礼拝をしていないことにはなりません。偶像礼拝の誘惑は実に巧妙に私たちの心に入り込んでいます。神以外のものを神とする。神以外のものに従うことが「偶像礼拝」です。神を忘れ、自分の能力、経済力、人脈等、神以外のものに頼る時、私たちは神から離れ、神に背いて罪に陥るのです。自分を本当に愛して、共にいて救う方を常にしっかりと見据えていたいものです。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 23:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする