2020年12月10日

11月29日 説教要旨

希望

2020年11月29日 待降節第1主日・アドヴェント
イザヤ書第2章1-5節
牧師 木谷 誠

 今日からアドヴェントが始まりました。12月25日の前の四つの日曜日でクリスマスの準備をします。アドヴェントクランツにロウソクを一本ずつ火をつけて、4本のロウソクがついた時がクリスマスのお祝いです。
 今日、アドヴェントの最初の日曜日のテーマは「キリストの再臨」です。再臨とは、「この世の終わりにもう一度イエス・キリストが来られて、救いを完成してくださること」です。歴史には終わりがあると聖書は教えています。イエス・キリストは十字架に死なれました。そして三日目に復活され、天に昇られました。歴史の終わりの時、イエス・キリストがもう一度おいでになります。そして様々な悪を正してくださいます。これが最後の審判です。その時にはすでに死んだ者たちも新しい命をいただいきます。そして全ての悩みと苦しみから解放されて、神様と出会います。先に亡くなった愛する者たちと出会います。そして永遠に共にいることができます。その救いの完成、救いの実現のためにイエス・キリストがもう一度来てくださる。その希望を確かめることが今日のアドヴェントの最初の礼拝のテーマです。
 最後の審判のことを思うと、怖い気持ちになります。でもその時には、愛と憐みに満ちたイエス・キリストがおいでになって、悪を正し、弱い者を救ってくださるのです。それが「裁き」です。「裁き」ということばは、どうも「迫害」されているみたいです。教会の中では悪い意味で使われることが多いです。でも「裁き」は神の救いの完成のために大切な役割を持った言葉です。イエス・キリストが行われる神の裁きはこの世の裁きよりもはるかに完璧です。だから、私たちは恐れなくても良いのです。神の裁きは私たちの希望なのです。
 今日のイザヤ書はそのことを預言しています。終末の日、神様が救いを完成してくださる日、エルサレムを中心にすべての人が神様に従います。そして平和が実現します。この世がどんなに乱れていても、神様の救いの完成は近づいています。だからどんなに厳しくても、希望を持つことができます。その希望を力にしましょう。そして「主の道を歩もう」。神様に従いましょう。神様に喜ばれることをしましょう。イザヤはそう勧めています。
 そうは言っても私たちの社会には、様々な不安があります。どうしようもない様な悪、不正、争いがあります。どす黒い心の闇が、私たちの外側にも、私たちの内側にもあります。その様な中にあっても、イザヤ書に記されている様に、救いは確実に実現しつつあります。平和を実現してくださいます。だから私たちは、常に自分の思いと言葉と行いが神様の御心に照らして吟味しましょう。自分の思いと言葉と行いが、神様に喜ばれるものとなっているかどうか、常に問いながら日々の生活をなして参りましょう。もしかしたらこの世では正しく評価してもらえないかもしれません。神様に喜ばれようとして一生懸命努力しても、認めてもらえないかもしれません。
 先週、東予分区教師研修会を、宮城学院の新免貢先生を講師としてリモートで行いました。便利な時代になりました。その中で新免先生が江戸時代、大竹与茂七という人のエピソードを紹介されました。村の堤防が崩れて大洪水にならないために与茂七は自分の山の木を切って堤防を強くしました。しかし、まだ足りず、他の人の山の木も切って堤防を守り、村を大洪水から救いました。でも、役人たちは与茂七を認めませんでした。そして死刑にしてしまいました。最後に与茂七は「今はよしあらぬ濡衣みにおへど きよきこころは知る人ぞ知る」という句を残しました。与茂七だけではありません。人を救う立派な行いでも、世の中では認められないことがあります。とても残念で悔しいことです。私たちも同じ様なことに会うことがあります。しかし、世の中が認めなくても、神様は必ずわかっていてくださいます。そして終末の救いの時には、それをきちんと認めていただくことができます。人が認めなくても、神様はわかってくださる。そして終末の時には全てがよくなる。私たちにはキリスト再臨の希望があります。だからこの世においては、報われなくても、神様の喜ばれること為していく勇気を与えられます。
 イエス・キリストが再びきてくださる。そして全てをよくしてくださる。この希望を確かめましょう。心が挫けそうになる時もありますが、希望を持って、神様に喜ばれる生活をしましょう。

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2020年12月02日

11月22日 説教要旨

集められる喜び

2020年11月22日 降誕前第5主日
収穫感謝日・謝恩日(王の職務)
ミカ書第2章12-13節
牧師 木谷 誠

 降誕前第5主日となりました。12月25日のクリスマス、12月20日のクリスマス礼拝、イエス・キリストのお誕生をお祝いする準備が始まっています。
 今年、一番大きな出来事は新型コロナウイルスでした。世界全体がこのウイルスによって大きく揺れ動きました。経済活動も交通もとても大きく制限されました。学校もお休みとなりました。世界全体がとても大きなダメージを受けました。教会も4月19日から5月24日まで礼拝ができなくなりました。こんなことは今までなかったことでした。そして5月31日、久しぶりに礼拝ができました。その時、みんなが一緒に集まって礼拝できることは本当にありがたいこと、嬉しいことだと感動しました。日本語で「ありがたい」の反対は「当たり前」です。今まで、日曜日にみんなで集まって礼拝することは「当たり前」だと思っていました。でも、決して「当たり前」ではありませんでした。それはとても「ありがたい」ことなのでした。新型コロナウイルスの苦しみの中で教えられたことでした。
 もう少し考えてみました。私たちが「集まる」のでしょうか?それで本当に正しいのでしょうか。そうではありません。神様が「集めてくださる」のです。「私たちが集まる」のではなく、「神様が集めてくださる」のです。では、なぜ集めてくださるのでしょうか?理由は三つあります。
 一つは、私たち人間は一人では生きていくことができないと言うことです。私たちは元々神様との交わり、人との交わりの中で生きる様に作られています。散り散りバラバラに孤立した状態で私たちは生きていくことはできないのです。誰かとつながって、ともに生きていく。そんな交わりに生きる命として私たち人間は元々作られています。そのことを神様はご存知なのです。
 もう一つ、神様は、罪深い私たちが散り散りバラバラになって生き生きとした命を失ってしまうことを望んではおられないと言うことです。どんなに罪深く、どんなに神様を裏切っていても、神様は、私たちを見捨てることはありません。それほどまでに神様は私たちを愛しておられるのです。
 三つ目は、聖書の中で、常に神様は人間よりも先に働いておられるからです。私たちが「集まった」と思うのは自由ですが、それは錯覚です。勘違いです。私たちが神様を知る前から神様は私たちを知っておられます。そして私たちが集まる前に、神様は私たちを呼んでくださっているのです。常に神様が私たちよりも先なのです。
 今日の聖書、ミカ書もそのことを語っています。イスラエルの人々は、神様に背き、故郷を離れて、遠くへと散らされてしまいました。イスラエルの人々が、神様を裏切ったからです。しかし、神様はイスラエルの人々を決して見捨ててはおられませんでした。神様はイスラエルの人々を愛し、憐れんでくださいました。そして再び集めてくださることを約束してくださったのです。この約束がイスラエルの人々の希望でした。なぜなら、神様は決して約束を破らないからです。どんなに人間が約束を破ろうとも、神様は約束を破りません。この希望があったから、イスラエルの人々は苦しみに耐えてもう一度神様に帰っていくことができたのです。
 今、私たちは、同じ場所で、一つになって礼拝することができています。でも、いつまた礼拝ができなくなるかもしれません。それから今私たちが同じ場所に集まっていますが、まだまだそれは十分ではありません。目に見える形では一つになって礼拝していますが、目に見えない心はまだまだ一つになっているとは言えません。神様の約束をしっかりと信じて、お互いが神様を礼拝できること、ここに集めていただいて、共にいることができることに感謝して、心から礼拝を捧げましょう。その時、神様が、私たちを目に見える形でも目に見えない形でも一つにしてくださることでしょう。そのようにして共に礼拝をまもり、クリスマスに向けて歩んでいきましょう。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 07:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする