2021年01月13日

1月3日 説教要旨

あなたは慰められる

2020年1月3日 降誕節第2主日(エジプト逃避)
エレミヤ書第31章15-17節
マタイによる福音書第2章13-23節
牧師 木谷 誠

 与えられたマタイによる福音書のイエス・キリストの誕生物語はとても悲しい事件で締め括られます。東方の占星術師たちは、天使のお告げを受けて、ヘロデのもとには帰りませんでした。これを知ったヘロデは激怒し、ベツレヘム周辺の二歳以下の子どもを皆殺にしてしまいました。これがヘロデ王による幼児虐殺です。この物語を読むたびに私はとても悲しくやりきれない気持ちになります。イエス・キリストは世の罪人の身代わりとして命を捧げ、犠牲の子羊となられました。そのイエス・キリストの身代わりとなって犠牲になったベツレヘム周辺の子どもたちがいるのです。正直、「この物語がなかったら」と思ったことが何度もあります。マタイはこの物語を、それを読むものが心を痛めると知りつつ、書き残しました。その意味を確かめたいと思います。
 その意味の一つは、旧約聖書の預言の成就です。ヘロデの陰謀に代表される人間の欲望(権力欲)は膨張し、尊い命を奪い、大きな悲劇をもたらしてしまうということです。人間の罪の恐ろしさをこの物語は指摘しています。
 二つ目は、人間の企て、陰謀は、神の救いのご計画を止めることはできないと言うことです。ヘロデの陰謀は、イエス・キリストを殺害して、自分の権力を守ろうという計画でした。たくさんの兵隊、武器、大きな屋敷、ヘロデの権力は目に見えます。とても強大です。神の救いのご計画は目に見えません。目に見えるしるしは無力な生まれたばかりの赤ん坊と貧しいヨセフとマリアです。人の目から見たら、ヘロデの方が強く見えます。しかし、神の救いのご計画はヘロデの企てを超えて力強く働くのです。私たちは世の動きに惑わされないで、神の救いのご計画への信頼を新たにしましょう。
 しかし、割り切れない思いは残ります。なぜ罪もない子どもたちが死ななければならないのか、神はなぜそれを放置しておられるのか?この疑問は歴史の中で数多く起こって来ました。今も起こっています。なぜ、新型コロナウイルスが蔓延するのか?人間の奢り昂り、罪の結果?確かにそう言う部分もあるでしょう。でもそのためにこれほど多くの人たちが犠牲にならなければならないのか?これはヘロデの野望のため、罪のない子供たちがなぜ殺されなければならなかったのかと言う問いと本質は同じです。この問いは歴史の中で何度も繰り返されて来た歴史の謎、不条理です。
 残念ながらこの問いへの答えは出せません。人生には、歴史には、人間に答えの出せない問いが存在することを私たちは認めなければなりません。それに答えを出せると思うことは人間の思い上がりです。しかし、希望はあります。人間が希望を見出せないところでも神は希望をもたらしてくださいます。その鍵はエレミヤ書第31章16-17節の言葉です。我が子を失った母、最も痛ましい姿です。神はその母に対して、泣き止みなさい、涙を拭なさい、あなたの苦しみは報いられる、あなたの未来には希望があると告げます。人生の不条理に私たちは打ちのめされます。無力です。しかし、これで終わりではありません。希望があります。その希望として、イエス・キリストがエジプトから帰って来ます。そして神の愛を伝え、十字架にかかり、復活されます。そして私たちの罪をゆるし、神との永遠の愛の交わりを実現されます。世の終わりに再び来られ、死者は復活し、新しい命をいただいて、主の前に永遠に共にいることができます。その時には、かつてヘロデによって命を奪われた幼子たちも新しい命をいただいて、母たちと再び会うことでしょう。その時に、母たちの苦しみは報いられます。歴史には、説明のつけられない悲しみが存在します。不条理です。罪の結果と言うには痛ましすぎて、希望を見出すことができません。しかし、そこに神は希望をもたらしてくださいます。それだけではありません。神はそのような不条理に打ちのめされる者に寄り添い、悲しみを共にする者としてイエス・キリストをこの世に送られたのです。なぜこんなことが起こるのか?その問いの前に立ち尽くし、呆然とする者に寄り添い、苦しみと悲しみを共にする神としてイエス・キリストは来てくださいました。インマヌエル、我々と共にいてくださる神は、イエス・キリストの姿で来られました。そして今度こそかつて自分の身代わりになった幼子たちを含め、全ての人たちに永遠の命をもたらすための十字架にかかるためにイエス・キリストは来られたのです。イエス・キリストご自身の身代わりになった幼子たちに永遠の命をもたらすために、全ての不条理に打ちのめされる者たちに慰めと希望をもたらすために、「あなたは慰められる」とのメッセージを携えて、イエス・キリストは来られました。そしてもう一度、世の終わりにイエス・キリストは来られます。その時には、全ての不条理の問いは、圧倒的な喜びの前に消えてしまいます。マタイが、美しいクリスマス物語の最後を、なんとも後味の悪い、切ない物語で締めくくる意味はそこにあるのではないでしょうか。そしてこの物語があるからこそ、私たちは新しい年にも慰めと希望を期待して歩んでいくことができるのです。
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2021年01月05日

12月27日 説教要旨

誰がためにその喜びはあるか

2020年12月27日 降誕節第1主日(東方の学者たち)
マタイによる福音書 第2章1-12節
伝道師 𠮷川庸介

 救い主の存在を真っ先に知らされるのは、当然その存在を信じている者だろうと考えることでしょう。ところが、救い主であるイエスの誕生をまず知らされた占星術の学者達は、救い主がやってくることを知らない異邦人でありました。しかし彼らは、その知らせを喜び、生まれたイエスのところへと贈り物を持っていこうとします。そんな彼らの次に、喜ばしい知らせについて伝えられたのは、救い主の存在を知っており、また信じていたヘロデ王とエルサレムの人々でした。しかし、彼らは喜びではなく不安を抱き、ヘロデ王などは、殺害を試みております。なぜ喜びと不安を抱く立場が、実際にはその逆となっているのかと考えていますと、ふと大学時代の論議を思い出しました。
 まだ、私が大学に入学したての頃であったと思います。私は、世界に終わりがやってくる日に、キリストを信じない者は救われないのかという質問を投げかけたことがあります。その質問への答えは、それは、カルト的な考え方に過ぎない、神は全てを愛してくださっている、というものでした。しかし私は、ヨハネ福音書には「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」とあるが、「全て」は信じる人だけであるのか、選別された状態の人間がいるように思え、胸につっかえを覚えたのです。
 これに併せて、現代の私たちのことを考えてみたいと思います。私たちは救い主の存在を信じ、いつの日かやって来る最後の日に神の国へと行くことができると口では信じていると言います。しかし、もしその最後の日が現実として間近に迫った時、それは私たちが今、営んでいる生活、これまで積み重ねてきた努力や人間関係、それら全て捨てることとなったとしても喜びと共に受け入れることができるのでありましょうか。どこかで、現状や積み上げてきたものについて惜しいと思う気持ちが、救い主を待ち望む純粋な思いの中に、影を落とすことはないでしょうか。また、救い主の誕生を心から喜べず、恐れさえを抱いた人は、最後の最後に反旗を翻すような者であったことでしょう。その時思ったのであります。実際に、待ち望むと言うことは簡単であるが、その本心は偽りであり、自分はヘロデ王であり、エルサレムの人々に過ぎないと思たのです。
 そう考えた時に、占星術の学者はまったく違う世界で生きており、その世界の中で完結し、彼らなりの信じるものがあったはずです。つまり、元々は占星術の学者は、救い主を知る機会など一切なかったということに再度気がつきました。そのような元々は何も知らなかった人々に対して、真っ先に伝えられたことは、救いとは誰に対してでも当然与えられるものであるということ、そして誰一人として救いの手のひらからこぼれ落ちないようにと神が人を愛そうとする覚悟があらわれているのではないかと思ったのです。
 考えてみれば私たちは誰しもが救い主の存在など知らない、占星術の学者達のようなものでした。しかしある時、救い主の存在を確かに信じ、喜ぶことを知ったのです。いったい誰のために、イエスはこの世に来られたのか、それは限られた人のためではなく、信じる者、信じない者に限らず全ての者にその手を差し伸べるためでありました。その事実があることを思い祈りつつ、神の愛を確認していきたいと思うのであります。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 10:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする