2021年01月31日

1月24日 説教要旨

天の国はすぐそこに

2021年1月24日 降誕節第5主日(宣教の開始)
イザヤ書 第8章23節b-9章3節
 マタイによる福音書 第4章12-17節
伝道師 𠮷川 庸介

 「悔い改めよ、天の国は近づいた」は、あまりにも有名な言葉でありますが、いざ説明せよと言われ色々と考え始めると、さまざまな難しい問いが生じます。
 この「悔い改めよ」と言う言葉を投げかけられた人々とは、かつて大国に征服され、アイデンティティーを破壊された人々であります。イザヤ書に辱めを受けたとありますが、上記の苦しみを受けることを指し、この上ない辱めだと言っているのです。彼らはその屈辱から数百年の時を経て、再びユダヤの同胞として迎え入れられましたが、かつて征服された場所に住んでいたという理由だけで、まるで見知らぬモノのように扱われたのであります。暗闇、死の陰との言葉でありますが、これは人が住むような場所ではない-すなわちそこに住む人は人ではない-という侮蔑の意味をこめて呼ばれているのです。
 このようなことを、ただ遠い昔の出来事というわけにはいきません。身近な例を挙げるなら、例を見ない新型感染症について言えるでしょう。好き好んでこの状況に陥ったわけでもないのに、その地域に住んでいたと言うだけで監視をされる日々を送ることとなり、一度感染すれば不快感を持たれ、満足に日常を送れない人々の姿を見るからです。好き好んでなったわけでないにもかかわらず、気がつけば苦境に陥ることを、神が与えた試練なのかと、かえって無気力と絶望を感じる彼らと、今を生きる私たちとは重なるのです。
そのような、一切の希望も慰めも感じられぬ人々に光が差し込んだとあります。この一言を聞き、あぁ、ようやく救いがもたらされたのだと思いそうですが、実際のところ何が言いたいのかと思われたに違いありません。そもそも、悔い改めろとありますが、既に苦しみを受けた者が、さらに反省が足りないとか、至らなかったと言わなくてはならないのでしょうか。
 今一度悔い改めよとの言葉を見てみます。実はこの言葉のもっとも根幹にあるのは、「お前の心のうちを変えなさい」との意味です。ただ己の生き方が至らないのだと考えたりするだけであれば、私たちはなんとでもできてしまうのです。そのようなものは、自分が持つ肩書きや、自分が譲ることができないプライドなどを前にした時、簡単に放棄されてしまうものにすぎないのです。
 悔い改めよとは、お前たちは、自分を取るに足りないと言われそのように思っているかもしれないが、それは人が決めたものを基準としているのであり、そうではなく神である自分を見つめるように心を変えよ、と言っているのです。この言葉は時を越え、私たちに向かっても投げかけられているのです。この心を、私たち全員が持つことを求め、イエスは宣教のはじまりの言葉として発されたのであります。
 ルカによる福音書でイエスは「神の国はあなたがたの間にある」と語りますが、この言葉が叶った時、肩書きだとかそんなものは一切が捨てられ、ただ喜びを知った私たちが共に肩を並べ、救いを与えてくださったイエスの弟子として、ただその光り輝く姿を追いかける私たちの姿があるのではないでしょうか。そしてその時にすぐそこ、すなわち私たちの間にある天の国へと入ることができるのです。
 悔い改めよ、天の国は近づいた。できないと思った時、暗闇の中を彷徨うことになった時、それでもなお、目の前で光を放ち、じっとその場で待ち続けておられる方がおられます。そのお方、すなわちイエスの一片に触れ、天の国へと招き入れられるその喜びを、ともに分かち合い、生きてまいりたいと思います。
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2021年01月26日

1月17日 説教要旨

呼びかけに応えて

2021年1月17日 降誕節第4主日(最初の弟子たち)
マタイによる福音書第4章18-25節
牧師 木谷 誠

 私たち、それぞれに教会に来るようになったのには、いろんな機会があったことでしょう。学校がキリスト教系の学校だった。家族で昔から教会に通っていた。たまたま教会の前を通ったら、賛美歌が聞こえてきた。友達に誘われて行ってみようと思った。興味深かったのは、メンソレータムを買ったら教会の案内があって行ってみたというお話を伺いました。確かにあの会社は当時クリスチャンの会社でした。私の父は、賀川豊彦先生が、集会に来られて、そのお話に感動し、決心カードを書いたら、その後、教会から案内が来て行き始めたということでした。そのようにそれぞれに教会に来るようになった理由はあります。どれも皆とても尊いと思います。
 しかし、その一方で覚えなければならないことは、私たちが教会に来る前に、神様が私たちのことを選んで、教会に招いてくださったということです。私たちが教会を知る前から、神様は私たち一人一人のことをご存知で教会に招いてくださったということです。私たちではなく、神様が先なのです。神様の恵みが私たちの行動の前に働いているのです。
今日の福音書はそのことを伝えています。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネがイエスを見つけて、イエスと出会って、弟子になったのではありません。彼らはイエスのことを知りませんでした。イエスが、彼らを見つけて、出会って、弟子に招いてくださったのです。イエスの呼びかけが彼らの応答よりも先なのです。
 この招きに彼らは喜んですぐに従いました。仕事も家族も捨てて従いました。これを読みますと、「すごいなあ、私にはできない」と思われるかもしれません。イエスの呼びかけにはとても魅力があったのでしょう。それともう一つ、イエス・キリストは、それができる人だから、声をかけたのです。仕事も家族も置いて行くことが可能な人だとわかっていたから、ペトロ達に声をかけたのです。イエス・キリストの目は確かです。できそうもない人にできそうもないことを命じたりはしません。できるとわかっておられたから声をかけたのです。そしてイエスは声をかけた後も責任を持って関わってくださいます。イエスは彼らを「人間を取る漁師」にしてくださいます。これまでは、漁師として、魚を相手にしていた彼らが、人間を相手にする仕事を始めるようになるということです。光栄と喜びに溢れた新しい世界、神の国のつとめにイエスは招いてくださるのです。
 イエスは四人と共に神の国のつとめを始めました。それは神の国について教え、神の国について広く伝え、人々の病や悩みを癒す働きです。神の国とは、神様の支配、神様との愛の交わりの生活のことです。イエスを通して、神様の愛を知り、喜び溢れる経験をいただく中で、日々の悩み、苦しみが癒されていったのです。新しく生きる喜び、生きる勇気をいただくことができたのです。
新しい年、私たちもイエスの神の国の教えから豊かな喜び、神様から愛されている喜びをいただいて、励まされ、強められたいと思います。そしてこの愛に応えて、私たちも神の国、神様との愛の交わりの生活の素晴らしさを伝える者として歩んで参りたいと思います。
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2021年01月19日

1月10日 説教要旨

神の覚悟、神の本気

2021年1月10日
降誕節第3主日(イエスの洗礼)
マタイによる福音書第3章13-17節
牧師 木谷 誠

 洗礼者ヨハネのところに洗礼を受けに来たイエスの眼差しはどうであったのでしょうか。ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼です。罪を犯した者が自分を清めるために行うものでした。イエスが悔い改めの洗礼を受けるということは、イエスが罪人の一人になったということです。洗礼を受けに来たイエスを見て、ヨハネはそれを思いとどまらせようとしました。イエスが神の子であることをヨハネはひと目見てわかったのでしょう。「いと高き神の子が罪人として洗礼を受けるのはおかしい。自分こそイエスから洗礼を受けるべきだ。」と。そう考えるのは当然です。ではなぜ、イエスは洗礼を受けたのでしょうか?それはイエスが罪人とつながろうと決心したからです。そして罪人に寄り添い、悩み苦しみを共にし、神の愛を伝えようと決心したからです。さらにその罪人が神にゆるされ、神の子とされるために、罪人を罪から救うために罪人にかわって十字架で命を捧げ、罪の贖いをするためです。イエスはそれほどの覚悟でヨハネの洗礼を受けに来たのです。それほどイエスは本気だったのです。イエスは本当に人間になられたのです。イエスは、食べなければお腹が空く、打たれれば痛い、切れば血が出る生身の人間の姿になられたのです。それは罪の故に様々な悩み苦しみを背負って生きる人間、その人間の生々しい現実に本気で関わる覚悟があったからです。ヨハネのところに洗礼を受けに来たイエスの眼差しには、そんな覚悟、本気が表されていたのではないでしょうか。
 イエスは言いました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」イエスが洗礼を受けることは神のご計画であるからそれに従う。そのイエスの神のご計画に従う覚悟と本気がここにも現れています。この言葉を聞いたヨハネは嬉しかったと思います。イエスが「我々」と言われたからです。いと高き神の子が洗礼者ヨハネを、共に神の救いのご計画を担う仲間と認めた。それがこの「我々」という言葉に表されています。
 そのようにして罪人の仲間となる決断をされたイエスに聖霊が降ります。イエスの働き、その力の源は人間の力ではなく、聖霊です。目に見えない神の力なのです。神の力は、自分のために用いるのではなく、自分を捨てて、神に従う決断をしたイエスに与えられたのです。そしてそのような決断を神はよしとされました。それが「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との天の父なる神からの言葉です。神がイエスの覚悟と本気をお認めになったということです。
 イエスの洗礼の物語には、いと高き神の子が、これほどまでの覚悟と本気を持って、イエス・キリストの姿で来られたのだということが示されています。イエス・キリストに示された神の愛にはこれほどまでに本気の覚悟がある。まさしく命をかけてこの世界を、私たちを愛し、愛し抜くためにイエス・キリストは来られたのです。私たちを愛する神は、これほどまでの本気と覚悟を持っておられるのです。私たちはこれほどまでに深く愛されているのです。この聖書を読んで、このような神の覚悟と本気を示される時、自分が問われます。自分がどれだけ、本気で覚悟を持って自分の現場で生きているだろうか、出会う人と関わっているだろうかと。皆様はいかがでしょうか?私は、自分の覚悟と本気がどれほどみすぼらしく粗末であるかを思い知らされ、恥ずかしくなりました。逆にそのような私をこれほどまでに本気で覚悟を持って愛してくださるイエス・キリストへの感謝と尊敬がますます大きくなりました。私たち、この愛にお応えするにはあまりに粗末な罪深い者ですが、それでも神様は私たちが神様の愛に感謝し、応えることを喜ばれます。そしてイエスに降してくださった聖霊を私たちにもくださいます。その時、私たちは、それぞれ与えられた場でそれぞれの個性を生かして神様にお仕えすることができるようになるのです。
 この愛に感謝し、私たちなりに精一杯応えましょう。たとえそれが、立派なかっこいい覚悟の姿でなくてよいのです。おっかなびっくり、及び腰でも良いのです。そのとき、イエス・キリストに注がれた聖霊が私たちにも与えられることでしょう。そのとき、私たちも神様から委ねられた務めを果たす力を与えられて、神様のご栄光を証する者としてこの年も歩んでいけることでしょう。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 23:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする