2021年02月23日

2月14日 説教要旨

ブレてもいいから歩き続けて

2021年2月14日 降誕節第8主日(奇跡を行うキリスト)
マタイによる福音書 第14章22-33節
牧師 木谷 誠

 五千人(女性と子どもを別にして)に食事を与えた後、イエスは弟子たちを強いて先に行かせました。なぜでしょうか?祈るためです。なぜイエスは祈ったのでしょうか?祈りは神様と交わることです。神様に語りかけ、神様に聞くことです。イエスにとってそのような祈りはまさしく命の養いでした。イエスは神様との交わりの中で新しい力をいただいていたのです。私たちも祈ることによって神様と交わることができます。これもイエスのおかげです。祈りは命の養い、慰め、力なのです。
 そのようにしてイエスが祈っている間、弟子たちは湖の向こう岸に渡ろうとしていました。しかし、風が逆風で船が進まず、波が荒れて、困っていました。そこにイエスが水の上を歩いてやってきたのです。弟子たちは驚き、幽霊かと思って恐れました。情けない話です。でも人間の弱さはこんなものなのかもしれません。弟子たちは疲れていたことでしょう。弟子たちは風と波に悩まされ、心乱れていたことでしょう。そんな疲れ切って乱れた心では、イエスのことを幽霊と思ってしまうのです。
もっとも頼りになる方、助けになる方を見間違えてしまい、拒んでしまうのです。いわば心がブレた状態、それも相当ひどい「ブレブレ」の状態です。イエスとは正反対です。イエスは疲れ切った中でも祈りを忘れませんでした。そこから新しい力をいただいていました。弟子たちは祈りを忘れ、目の前の嵐の現実に心乱れ、神様を見失ってしまっていたのです。そのような弟子たちに対してイエスは「安心しなさい。私だ。」と優しく呼びかけてくださいます。祈りを忘れ、神様を見失い、一番頼りになる人を拒んでしまう。そのような愚かで弱くブレてしまう弟子たち。弟子たちの姿は私たちにも重なるのではないでしょうか?イエスはそのような弟子たちの、私たちの弱さ、愚かさ、「ブレブレ」の状態をご存知です。そしてイエスは私たちを憐んでくださり、温かい愛を注いでくださいます。イエスは水の上を歩いてでも助けに来てくださるのです。ペトロは、イエスの助けを喜び、イエスの声に従って水の上を歩きました。しかし、ペトロは途中で強い風に心乱され、溺れかけてしまいました。ペトロもブレてしまいました。一番弟子のペトロでさえも他の弟子や私たちと大差ありません。イエスはそれら全てをご存知で、寄り添い、しっかりと手を伸ばして捕まえてくださいます。このイエスこそ、神の子、私たちの導き手「真の羊飼い」なのです。
 私たちにできること、必要な身支度は祈りです。それからもう一つあります。私たちはここでペトロのことを考えてみましょう。この時、ペテロは途中まではイエスをしっかりとみていました。でも強い風や高い波のためにペテロは心が乱れて、イエスが見えなくなりました。するとペトロはたちまち沈みそうになりました。これが人間の罪です。私たちの弱さです。罪は「的外れ」ということもできます。私たちの心がイエスという的をしっかりと捉えていれば大丈夫、沈みません。でも強い風や高い波が気になって、そっちに心が向いてしまうと心がイエスというマトから外れてしまいます。すると私たちは沈んでしまうのです。このような罪と弱さを私たちは持っています。大切なことはそんな沈みそうになっている時にイエスがそばにいてくださることに気づくことです。そしてイエスの手を握ることです。それが信仰です。私たちの人生にも様々な事件があります。その事件のために私たちは、心乱れ、恐れ慄きます。そしてイエスを忘れてしまい、ブレてしまいます。そんな時、祈りましょう。神様を呼びましょう。イエスを呼びましょう。「主よ、助けてください」と叫びましょう。その時、私たちはイエスがそばにいて手を伸ばして私たちを捕まえてくださっていることに気づくことができるのです。そこに私たちに手を伸ばし、しっかりと掴んでくださる「本当の神の子」イエスがおられるのです。ブレても良いから、もういちど祈りましょう。イエスの方を向いて、イエスに心を向けて、イエスに呼びかけて、歩き続けましょう。イエスはあなたに寄り添い、しっかりと捕まえてくださっているのです。イエスはあなたと共におられます。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 19:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月16日

2月7日 説教要旨

癒しへの招き

2021年2月7日 降誕節第7主日(いやすキリスト)
マタイによる福音書 第15章29-31節
牧師 木谷 誠

 聖書には癒しの物語が出てきます。ここでの癒しは、気分が良くなったとか、疲れが取れたとかいうものではなく、病気が治ったとか、目の見えない人が見えるようになったとか、体の不自由な人の体が動くようになったという出来事です。これらは普通では非常に信じにくい出来事です。聖書に出てくる癒しの物語は、読む人にとって、大きな障害になることがあります。私たちはこのような物語をどう受け止めたら良いのでしょうか?教会の中にはいろいろな立場があります。私は、素朴にそのまま信じます。神様はこの時にはそのような不思議な出来事が必要とお考えになった。だからこのような癒しの奇跡が起きたのだと信じます。なぜかというと、教会に通い、聖書の言葉を聴いて、信仰生活を続けているうちにたくさんの神様のお恵みをいただきました。何度も助けていただきました。素晴らしい出会いをいただきました。そのようにたくさんの神様のお恵みをいただいているうちに聖書に書いてあることはそのまま信じたら良いと思うようになりました。今では同じことは起こりません。しかし、今の時代には、今の時代にふさわしい形で神様は私たちにお恵みをくださり、素晴らしい癒しの出来事を起こしてくださっています。
 この物語の始まり、イエスは山におられました。イエスは祈っていたのです。祈りは神様とお話しすること、神様に聴くことです。イエスはそのようにして神様と交わっていました。そこにイエスの癒しの力がありました。イエスは山で祈った後、多くの痛み、苦しみを抱える人々と出会いました。イエスは祈る中で、そのような人々に神様の愛を伝える準備をしておられたのです。神様は日々の生活の中で苦しみ、痛みを抱えて生きている人を愛し、寄り添い、慰め、励まし、癒してくださる。そのような神様の愛を伝えるために、癒された人々が喜びに満たされて神様を賛美することができようになるためにイエスは多くの人々を癒されたのです。
 今もイエスは痛み苦しむ人と共におられます。そして神様の愛を注いでくださいます。もちろん私たちにもです。聖書の言葉に聞き、祈る中で、私たちはその恵みに気づくことができます。そしてイエスに癒された者として、この恵を分かち合う者として、痛み苦しむ人と出会い、イエスの癒しへと招くことが求められます。この物語を読むたびに「わたしは誰かと出会っているだろうか?」、と反省させられます。今治の町にも、痛み苦しむ人、イエスの癒しを必要としている人がたくさんおられるはずなのに、本当に真剣に出会っているだろうか?何が足りないのか?それは祈りが足りないから、大切な出会いに気づくことができないのだと思います。
 わたしたちが、悩み苦しむ人、痛みを抱える人を訪ね、共に祈る時、そこに神様は素晴らしい出来事を起こしてくださいます。イエスの時代のようにたちまち癒されるということはないかも知れませんが、慰め励まされ、新しい歩みへと導かれます。そして喜びに満たされて、共に神様を賛美することができます。そのようにして癒され、その癒しの喜びを分かち合う者として今治の街に歩み出しましょう。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 22:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月08日

1月31日 説教要旨

心を鍛える

2021年1月31日
降誕節第6主日(教えるキリスト)
テモテへの手紙一 第4章7b-16節
牧師 木谷 誠

 本日、皆様と分かち合う聖書の言葉はテモテへの手紙です。私はテモテへの手紙が大好きです。大学院一年生の時、秋田に夏期伝道に行きました。祈祷会はフィリピの信徒への手紙で行いました。その時に、教会の方が「テモテへの手紙もいいですねえ」と言われて、テモテへの手紙に興味を持ちました。。そしてとても励まされたのでした。教会に着任して初めての説教はテモテへの手紙二第2章8節と決めていたくらいです。初めて教会に着任したのは24歳の時、教区の教職では一番若く、夏期伝道の学生の方が年上だったくらいでした。教会の方は、私が若いので、「テモテ先生」などと言って迎えてくださいました。嬉しい気持ち半分、畏れ多い気持ち半分でした。それから37年、今でもテモテへの手紙は大好きです。
 さて、ここでは「信心」という言葉が出てきます。この「信心」という言葉は、聖書の中ではあまり使われていませんが、なぜかテモテへの手紙には多く使われています。この「信心」という言葉は、一般的には「自分の心のあり方」という意味で使われます。これに対して「信仰」は「神と向かい合う姿勢」という意味で、信心よりも神との関わりを大切にしていて、より重要な意味を持っているとされています。
 しかし、テモテへの手紙で用いられている「信心」という言葉は、一般的な「信心」よりも、もう少し大切な意味があります。「神様と向き合った時の自分の心のあり方」とでも言えましょうか。自分の日々の心のあり方を、神様の御心に照らして吟味しなさいという意味で「信心」という言葉が用いられています。心のあり方は目に見えません。でも体を動かすのは心です。行動も大切です。「信心のために自分を鍛えなさい。」という今日の聖書の言葉は、言葉も大切ですが、その根本にある心のあり方が神様に喜ばれるものとなっているかどうかを常に丁寧に調べなさいと勧めているのです。これは体の鍛錬よりも大切です。そのような自分の心のあり方を神様の御心に照らして丁寧に調べる時、何が神様に喜ばれる正しいことであるのか、その基準を持っているかはとても大切です。それは聖書の言葉と祈りです。自分の知識や経験に頼ることは、独善に流れてしまします。人の目や評価ばかりを気にしていてもいけません。どちらも神様を忘れておかしな方向に行ってしまいます。常に聖書の言葉に聴き、祈ることによって、私たちは神様との交わりの中で自分の心のあり方を常に正しい方向に持っていくことができるのです。私たちが聖書を読み、祈ることによって、神様は聖霊という目に見えない力、導きをくださり、私たちを正しく導いてくださいます。だから「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。」と勧めているのです。これによって「信心」すなわちここでは「神様と向かい合う心のあり方」を正しく保ち、よりよく育てることができるのです。より本質的には、神様によって、より良い者へと育てていただくことができるでしょう。
 私たちも日々の生活の中で、目に見える行い、耳に聞こえる言葉はとても大切です。でもその根っこにある心のあり方はもっと大切です。聖書の言葉に聴き、祈ることによって、神様との交わりを生き、より神様に喜ばれる者へと育てていただきましょう。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 22:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする