2021年05月27日

5月16日 説教要旨

喜び、ほめたたえよ

2021年5月16日復活節第7主日(キリストの昇天)
ルカによる福音書第24章44-53節
伝道師 𠮷川庸介

 旧約聖書における預言の成就とは、「モーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてあること」であります。旧約の時代、絶望の中にあった人々に対し、救い主の到来という希望を教えた言葉がありました。今の時代であれば、ワクチンが完成し、それが行き渡る時が必ず来るといったことでありましょう。確かにそれは暗い時代にあって光指す希望になりえます。しかし、先祖たちが数百年間成就することなく、先祖が苦しみに耐えていた事実を弟子たちは知っておりました。先程の例で言いますなら、ワクチンがいつまでも完成せず、希望を全て打ち砕かれる状況でしょう。私たちもきっとそうですが、叶うはずだと信じていたことが全く叶わない時、やはり失望と共に、言葉に対して関心と信用が薄くなります。イエスの復活を目の当たりにしても、なおイエスを亡霊のように扱う弟子たちも、いつまでも成就しなかった旧約の言葉を思い出し、同じ感情を抱いていたかもしれません。
 しかしイエスは、そんな弟子たちの、頑なになっていた心を開かれました。自分がいかに救い主としての聖書に描かれる言葉通りに歩んできたかを語られます。イザヤ書、詩篇に描かれる苦難の僕を語り聞かせられ、これでもなお本当に信じないのかと言われます。よく、新約聖書において「こうして言われていたことが実現した」という言葉があります。例えば、ユダが自殺する箇所などがありましょう。そこには「こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とあり、エレミヤが語った言葉が語られております。つまりすべては偶発的に起こったのではなく、私たちは到底理解することができない神のみが知っている計画によって、全ては決まっていたことであるというのです。そしてそれを、心開かれた弟子たちは悟ったのです。
 ですが、心を開かれたといえどもそれだけでは十分ではありませんでした。どれだけ救い主であることを悟っても、その喜びを教えるにはあまりにも困難な時代でありました。エルサレムには自分たちを探し出して殺そうとする者もいる以上、宣教も、洗礼を授けることもできないのです。私たちも、喜びを知り分かち合おうとしても、そのたったの一歩を踏み出すことがどれほどの困難であるかをきっと知っているはずです。そのたったの一歩を踏み出す後押しを、私たちは常に求めております。弟子たちも同じであったことでありましょう。それゆえに、イエスは祝福を与えられたのです。
 思い返せばイエスの祝福は、つねに奇跡と共にありました。五千人に食事を与えられた時戸惑い臆す弟子たちに、最後の晩餐の時に、敵を愛せと語った人たちに、この祝福をイエスは与えられ、その奇跡は成し遂げられました。自分の力ではどうしようもなくなり祈り願うしかできなくなり、委ねなくてはならなくなった時、確かに私たちの背を押してくださるものであります。たったそれだけのこと、と言われるような簡単な言葉でありますが、それによって我らはでき得ぬことができるようになるのであります。すなわち、自分たちの敵で溢れかえるエルサレムへとわざわざ戻り、喜んで神を賛美する様子でありましょう。天に昇られたイエスが私たちに残してくださったものこそ、一歩を踏み出すための後押し、祝福であったのです。
 世界には、人の手ではどうしようもないと思えることが多々ございます。しかし思えば、その成し遂げられぬことを人は成し遂げてきました。それは神が祝福されたことによって行われたのではないでしょうか。そして今を生きる私たちもその祝福を与えられ、常に背中を押されていることはなんという恵みでありましょう。その事実の喜びを思い、主をほめたたえつつ、歩んでまいりたいと思います。
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2021年05月19日

5月9日 説教要旨

天の父よ

2021年5月9日 復活節第6主日 (イエスの祈り)
マタイによる福音書第6章5-13節
牧師 木谷 誠

 以前、子どもたちに主の祈りのお話をした時、一番伝えたかったことは、「主の祈りはイエス様が教えてくださったお祈りなんだよ」、神様は私たちのお父さんなんだよ」ということです。主の祈りは、唯一イエス・キリストが教えてくださった祈りです。その意味で教会の最も大切な宝の一つです。しかし、その一方で「主の祈りは教会の最大の受難者である」という言葉があります。主の祈りは、礼拝でも集会でも数え切れないほど祈られていますが、その意味をしっかりと味わって祈られているとは言えないからです。本日は、主の祈りの大切な意味、特に見落とされやすい「天におられるわたしたちの父よ」の意味を皆様にお伝えし、その恵みを分かち合いたいと思います。
 本日お読みいただいた聖書は、第5章から始まる山上の説教の一部です。この山上の説教の特徴の一つは、神を「あなたがたの天の父」と呼ぶことです。これは決して当たり前のことではありません。驚くべき大きな恵みなのです。神は「天」におられます。「天」とは人間が決して辿り着くことのできない神の座です。その様に遠く隔たった神が私たちの「父」となってくださるのです。「あなたがた」とはイエスのお話を聞いている人たちを指しています。神様が「父」であるならば、イエスの言葉に聴く者は「子」ということになります。これはイエスの言葉に耳を傾ける者という意味では私たちをも含んでいると考えて良いでしょう。神を「父」と呼ぶことはあくまでも比喩です。本来、神は創造者であって、私たちを造られた方です。そして私たちは神様によって造られたもの、被造物(作品)です。厳密な意味で、私たちは神様の「子」ではありません。神様の「子」はイエス・キリストだけです。それなのにイエス・キリストが神様を「父」しかも、「あなた方の父」として紹介する理由は何なのでしょうか?
 ここでイエスは、神様を「主」ではなく、「父」と呼ぶ様に勧めています。「主」という言葉で神を表現する時、「主」と向かい合う私たちは「僕、奴隷」となってしまいます。そこにあるのは、服従の関係です。もちろん神様を「主」と呼ぶことにも大切な意味があります。しかし、ここでイエスは、神様と私たちの関係は単なる服従の関係以上のもの、もっと生き生きとした喜びと感謝に満ちた「父と子」のような関係であると伝えたかったのです。イエスが「父」のイメージで伝える神様は、私たちを愛しておられ、私たちの罪を赦して、愛の関係を与えてくださる方です。罪深い私たち、繰り返し神に背く私たち、神様は、その様な私たちの「父」となってくださるのです。そこでイエスが伝えたいことは、神様との関係は、一方的な服従の関係以上の、暖かい喜びに満ちた愛の交わりなのだということです。神様が父となってくださり、私たちを子としてくださり、暖かい悦びに満ちた愛の交わりへと招いてくださっているのです。そのようにイエスは、山上の説教において、喜びと感謝に満ちた神との愛の交わりの世界を私たちに伝えています。神様は、私たちが「父」と呼ぶことをおゆるしになってくださいました。そして私たちを愛し、私たちの祈りを喜んで聞いてくださいます。なんと心強いことでしょうか。この恵みを喜び、感謝して、神様を「父」と呼んで歩んでいきましょう。
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2021年05月13日

5月2日 説教要旨


2021年5月2日 復活節第5主日 (父への道)
ヨハネによる福音書第14章1-11節
牧師 木谷 誠

 以前、東日本大震災被災地の幼稚園と保育園を訪ねてお話を聞きました。私が訪ねた園の園児たちに共通していたことがあります。それはどの子も落ち着いて素直に教師の言葉に従っていたということでした。東日本大震災、未曾有の大災害です。今、何が起こっているのか、何をしたら良いのか?子どもたちはわからなかったと思います。子どもたちには自分の身を守る知識も能力もありません。そのような危機の中で子どもたちは幼稚園教師、保育士をただただひたすら信じたのです。
 本日の聖書において、イエスはもうすぐ世を去ろうとしています。弟子たちは今何が起こっているのか、これから何が起こるのか、何もかもわからなかったことでしょう。それ故に弟子たちは大きな不安がありました。その様な弟子たちに対してイエスは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われました。イエスの言っておられることはわからない。でも、イエスという人を信じることはできる。イエスを遣わされた神を信じることはできるのではないでしょうか。「わかる」ことと「信じる」こととは同じではありません。わからなくても信じることはできます。その人との交わりの中で本当に信頼できると思ったら。その人の言っていることはわからなくても、言っているその人を信じるということは、私たちの日頃の人間関係の中でもあることではないでしょうか。
 弟子たちがわかることは、イエスはもうすぐ自分たちから離れていくらしいということだけでした。イエスは、世を去って父のもとに行き、そこに弟子たち、私たちの場所を用意して、私たちを招いてくださいます。そのためにイエスは世を去らなければなりませんでした。しかし、弟子たちにはまだそれがわかりませんでした。訳がわからず不安を訴えるトマスの言葉は弟子たち全員の思いでした。その様な弟子たちに対してイエスは言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。」「わからないのなら、私を信じなさい。そうすればいずれわかる様になる。」とイエスは言われるのです。「道」、それは「進む方法」ということができます。そこを見て歩み続けていれば、目的地にたどり着くことができます。これから何が起こったとしても、どんなに困難があったとしても、不安でたまらなかったとしても、この道をしっかりと見ていれば大丈夫なのです。そしてその「道」こそイエス・キリストです。イエスの言葉に常に聞き、従うことによって、私たちもこの大きな困難な時代を歩んでいくことができます。そしてこのイエスは、「道」であると同時に「真理」です。すなわちイエスが私たちの道であることは、いつの時代でも、どこにいても変わることはありません。そしてイエスは命です。命は交わりです。世を去った後も、聖霊を通して、イエスは私たちと愛の交わりを持ってくださいます。このイエスを見る時、私たちはそこに父なる神が示してくださっている愛を実感できるのです。
 今、私たちは大きな困難の中にいます。これからどうしたら良いのか、途方に暮れてしまいます。その様な時にあっても、その様な時だからこそ、常に「道」であるイエスの言葉を思い、イエスを信じ、イエスの導きに従って歩んでいきたいと思います。
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