2021年07月29日

7月18日 説教要旨

憐れみの器

2021年7月18日
聖霊降臨節第9主日(異邦人の救い)
ローマの信徒への手紙 第9章19-28節
牧師 木谷 誠

 聖書には時々、「えー、そんな無茶な、どうして?」と言いたくなるような物語が出てきます。例えばイサクの双子の息子、エサウとヤコブがいます。神様はイサクの後継者に兄エサウではなく弟ヤコブを選びました。理由は明確ではありません。また、出エジプト(イスラエルのエジプト脱出)の物語において、神はわざとエジプトの王ファラオをかたくなにしてモーセの言うことを聞かなくしました。どうしてでしょうか?
 これに対するパウロの答えは実に単純です。神は私たちを造った方(創造者)です。私たちは神から造られた物(被造物)です。神が陶器師ならば、私たちは陶器です。陶器は陶器師に何も言うことはできません。造られたものは、造った方に対して何を言うこともできないのです。ただ従うしかないのです。造られたものは造った方に従う。被造物は創造者に従う。聖書の論理は実に厳しい論理です。それくらい神には絶対的な自由と主導権があるのです。
 しかし、神はその絶対的な自由と主導権を憐みの心で用いました。本来であれば、憐みに値しない者、怒りの器を憐れみの器としてくだっさったのです。ここでパウロは「怒りの器」として真っ先に自分自身を考えています。彼はキリストを信じる者を熱心に迫害しました。彼は神の敵、キリストの敵でした。普通に考えればパウロは神の敵ですから、神の怒りを受けて滅びるはずでした。しかし、神はそうはなさいませんでした。怒りを受けて当然の者を神は憐れみました。そして神は寛大な心でパウロをゆるし、ご自身の憐れみを伝えるために用いてくださったのです。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(テモテへの手紙一第1章15節)」とある通りです。イエス・キリストによって示された神は、罪人の罪をゆるし、その罪を代わって引き受け、命をささげ、罪人を神との愛の交わりへと招く神です。そして「怒りの器」を「憐れみの器」としてくださるのです。
 ところで「器」には二つの機能があります。内容を受け入れる機能と内容を伝える機能です。器は内容を受け入れます。例えばコップは水という内容を受け入れます。水の器です。そして「器」はその内容を誰かに伝えます。器には受け入れる機能と伝える機能、器には二つの機能があるのです。同じように「憐れみの器」は神の憐れみを受け入れます。そして「憐れみの器」は、その憐れみを誰かに伝えます。どちらが欠けても「器」の本来の働きを満たすことにはなりません。パウロは、そしてパウロの同労者たちも、神の憐れみを受け入れ、それを多くの人々に伝えました。特にユダヤ人以外の異邦人に神の憐れみを伝える「憐れみの器」として用いられたのです。
 私たちもイエス・キリストによって神の憐れみ(愛)をいただいています。わたしたちも「憐れみの器」とされているのです。神の憐れみ(愛)を受け入れることができます。憐れみの器として、私たちも神の憐れみ(愛)を伝えます。そのようにして私たちも「憐れみの器」として神様に用いていただくことができるのです。
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2021年07月20日

7月11日 説教要旨

悪霊との戦い

2021年7月11日
聖霊降臨節第8主日(生活の刷新)
使徒言行録 第19章11-20節
牧師 木谷 誠

 本日の聖書では、病の癒やし、悪霊との戦いの物語が記されています。パウロはまるでイエスのように人々を癒し、悪霊を追い出していました。それは厳密にはパウロが行っていたのではありません。パウロを通して、神が行っていたのです。病に苦しむ人、悪霊に苦しむ人(おそらくは発作性の病気に苦しむ人)への神の愛を伝えるためにパウロは一生懸命に働いていたのでした。パウロは、自分を売り込むため、自分が名誉や利益を得るために働いていたのではありません。彼は、神の栄光を表すために働いていたのです。そのようなパウロを神は祝福し、各地で目覚ましい業をさせていたのでした。
 そこにユダヤ人の祈祷師たちが登場します。彼らは祭司の息子たちでした。彼らもまたイエスの名によって悪霊を追い出そうとしましたが、うまくいきませんでした。それどころか悪霊たちの逆襲(?)を受けて、ひどい目に遭ってしまいました。どうしてでしょうか?
 理由は簡単です。おそらくこの祈祷師たちは自分を売り込もうとして、自分の利益のために悪霊を追い出そうとしたのでしょう。神様は人の心を見られます。そのような心を持つ者たちを神様は決して祝福なさいません。当然、彼らに悪霊を追い出せるはずもありませんでした。自分を捨てて神の栄光のためにひたすら尽くしたパウロとの違いは明白だったのです。彼らの失敗は、イエスの偉大さをますます広めることとなりました。そして多くの人々が、悔い改めて、イエスに従いました。多くの人たちはこれまでの人生の歩みを悔い改めました。その悔い改めは自分の利益のために働くのではなく、神の栄光のために働くという人生の新しい歩みでした。そして彼らも悪霊との戦いに加わっていったことでしょう。
 ここでもう一つ大切なことがあります。それは誰と戦うかということです。イエスは、そしておそらくパウロも、悪霊と戦う時、悪霊に取り憑かれている人と戦っていたのでありません。悪いのは人ではない。その人の内にある神にそむく力なのです。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソの信徒への手紙第6章12節)とあるとおりです。そしてそのような戦いを支える力は、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソの信徒への手紙第6章11節)です。「神の武具」とは、自分の栄光や利益ではなく、神の栄光が現れるために自分を背後に退ける勇気、そして神に依り頼む信仰なのです。私たちも神の栄光を今治の町に伝えるために遣わされます。それは悪霊との戦いになることがあります。その時にこのような信仰と勇気を思い出して歩んで参りましょう。
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2021年07月13日

7月4日 説教要旨

悪霊との戦い

2021年7月11日
聖霊降臨節第8主日(生活の刷新)
使徒言行録 第19章11-20節
牧師 木谷 誠

 本日の聖書で、使徒パウロは、若い伝道者テモテに、支配者をはじめ、全ての人のために祈ることを勧めています。私たちは「全ての人」をどう理解したら良いでしょうか?それは、自分の仲間、自分に良くしてくれる人、自分に都合の良い人のためだけに祈るのではありません。それに加えて、自分に良くしてくれない人、自分を迫害する人、自分を傷つける人、自分に都合の悪い人のためにも祈りなさいということです。祈りは、自分の願い事を神様に申し上げることで終わってはいけません。自分の都合や好き嫌いに関係なく、全ての人のために祈ることが求めれられています。なぜなら神様は一人の例外もなく、全ての人を愛しておられるからです。そして全ての人が罪をゆるされ、神様の愛を受け入れ、神様との愛の交わりに入るために、イエス・キリストは十字架にかかられたのです。これはイエスの「山上の説教」とつながります。「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。(マタイによる福音書第5章44-45節)」この愛を伝えるために、パウロも、この手紙の受取人であるテモテも、神様から遣わされました。そして私たちも、神様の愛を今治の町に伝えるために遣わされているのです。
 祈りの中身は具体的には、願い、祈り、執りなし、感謝です。大まかに整理すれば、願いは自分のことについて願うこと、祈りは神様に色々なことをお話しすること、執り成しは誰かのために祈ること、感謝は文字通り神様に感謝することです。これらに祈りの初めの呼びかけと締め括りの「主イエスの御名によってアーメン」を加えたら祈りになります。ここでは「執り成し」の大切さが強調されています。
 「祈れないほど忙しい?」、私の大好きな本です。内容も良いのですが、本の名前にインパクトがありますね。以前、あれこれ忙しいと祈りがついつい疎かになりそうなことがありました。そんな時にこの本と出会ったのです。読む前から、このタイトルに「やられました」。一日は24時間(1440分、86440秒)あります。その中で祈る時間がないというのはどういうことでしょうか?そこで試しに主の祈りを唱えてみました。そして時間をはかりました。どれくらいかかったでしょうか?かなりゆっくり唱えて、途中で一回くしゃみをしても41秒でした。とても短い時間です。そんな時間すら取れないのは、時間の問題ではなく、心の問題です。日本語では、「いそがしい」は「心が亡くなる」と書きます。昔の人はやっぱりえらかったのですね。大切なことは最初にやりましょう。後回しにしたらできなくなります。朝起きたらまず祈る。寝る前に祈る。どんなに短くても良いからまずやってみることをお勧めします。そこから安らかな神様に喜ばれる一日が始まるのです。
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