2021年10月08日

9月26日 説教要旨

奉仕のために

2021年9月26日 聖霊降臨節第19主日・
全召天者記念礼拝(労働の意味)
テサロニケの信徒への手紙二 第3章6-13節
牧師 木谷 誠

 今日の聖書、皆様はいかがでしょうか?この言葉はついつい怠惰になりがちな私にとっては耳に痛い言葉です。ただ、ここで言われている「怠惰な生活」は、少し事情が違うようです。どういうことかと申しますと、当時のキリスト教会においては、天に昇られたイエス・キリストが再び地上に来られる、いわゆる「キリストの再臨」への期待と切迫感が強くありました。テサロニケの教会の人々は特にその意識が強かったようです。そのような中で、日々の仕事がなかなか手につかない人々、キリストの再臨が近いから、働いても無駄だと思う人々がいたようです。人々が怠惰になっているのは、そういう事情が大きかったのです。そのような中にあって、パウロは、浮き足立つことなく、落ち着いていなさい。そして自分に与えられた仕事にしっかりと励みなさいと勧めているのです。
 このようなキリストの再臨への期待と切迫感は、今日の私たちにはなかなか共有できないところがあると思います。なぜならばキリストが天に昇られてからもうすでに2000年近く過ぎているからです。日本キリスト教団信仰告白でも「主の再び来たりたまふを待ち望む」とありますから、キリストの再臨はとても大切な信仰の事柄です。私たちはもう少しこのことは日々の信仰生活の中でも意識すべきでしょう。しかし、テサロニケの教会の人々のように、「今日かもしれない。いや明日かも」という切迫感を持つのはなかなか難しくなってきています。おそらく、「キリストが再臨する前に私たちは地上の命を終えているだろう。キリストの再臨の時には、既に死んでいて、新しい命に復活するのだろうな」と考えている人がほとんどでしょう。では今日の聖書は私たちにはあまり縁のないメッセージなのでしょうか?そうではありません。私たちもテサロニケの教会の人々と同じようにキリストの再臨の時に向かって生きています。同じような期待感、切迫感を持つことは難しくても、今、落ち着いて、与えられた仕事(つとめ)に精一杯励むことが、キリストの再臨への最も良い備えであるという意味であれば、このパウロの言葉を受け止めやすいのではないでしょうか。
 今日の聖書に聞きながら、私が初めて教会に遣わされ、そこで初めての記念会の御用をつとめた時のことを思い出しました。その時に歌った讃美歌が54年版の368番でした。「つとめいそしめ 花のうえの きらめく露の 消えぬまに とき過ぎやすく 暮れはちかし あさ日てるまに いそしめよ」。私たちは、神様から命を与えられました。この命の時は限られています。この命に感謝して、喜んで、与えられた仕事に精一杯励むこと、それが命の与えてくださった神様が最も喜ばれることであり、イエス・キリストの再臨に向けてなすべき最も良い身支度でもあるのです。そしてそれは命を与えられ生かされている今しかできないことなのです。与えられた命に感謝し、精一杯日々の仕事(つとめ)に励んでまいりましょう。
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9月19日 説教要旨

誰にならうのか?

2021年9月19日 聖霊降臨節第18主日・創立記念礼拝(新しい戒め)
エフェソの信徒への手紙 第5章1-5節
牧師 木谷 誠

 本日は今治教会創立記念日礼拝です。心から神様に感謝したいと思います。昨年に引き続き、コロナ禍で迎える創立記念日礼拝となりましたが、そのような中でも聖書の言葉の恵みを分かち合って、143年目への歩みを始めましょう。
 本日の聖書は1.「私たちが何者であるのか」、2.「私たちはどう生きるべきか」を示しています。
1.についてパウロは「神に愛されている子ども」と言っています。これは例えです。厳密には私たち人間は「子ども」ではなく、「被造物(造られた者)」です。ここで「神の子ども」と言われるのは「神との愛の関係、愛の交わりに生きる者」ということを意味しています。このように私たちが神との愛の関係に生きる者とされていることは、「にもかかわらず」という言葉がついてきます。第一は、人間創造の初めのことです。神は人間を土のちりから造った「にもかかわらず」この人間をご自身との愛の交わりに生きる者とされたのです。これはとても大きな恵みでした。ところが、人間は神に背き、罪を犯しました。その罪は人間にからみついて、人間は自分の力でそれを取り除くことができなくなりました。「にもかかわらず」の第二の意味は、イエス・キリストの時になって、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪をゆるされ、神との愛の交わりに生きる者としていただいたことです。繰り返し神を裏切り、罪を犯す「にもかかわらず」、ゆるされて、愛の関係に招き入れられて、愛の関係に生きる者とされました。そのためにイエス・キリストが十字架にかかって罪を償ってくださいました。罪をゆるされ、神の子どもとされている恵みは、イエス・キリストの命というこれ以上ない高価な代償によって実現したのです。
 ここから2.「私たちはどう生きるべきか」へとつながっていきます。「神に倣う者」という言葉にも繋がっていきます。決して簡単なことではありません。まず大切なことは、常に神の愛をいただくということです。常に聖書の言葉に聴き、祈ることを通して、神の愛を心にいただくことから神に喜んで従おうという愛の応答が生まれてきます。さらにその愛の応答は「神に倣う者」というイメージが示されています。神の愛への応答として、イエス・キリストに倣う者となることが私たちに求められているのです。中世において、トマス・ア・ケンピスが書いた「キリストにならいて」という名著があります。カトリックのみならずアメージンググレイスの作詞者であるジョン・ニュートンやメソジスト派の創始者ジョン・ウェスレーもこの本によって導かれました。キリストを模範として、キリストに学びつつ生きるという意味になります。そのように「神に倣う者となりなさい」というパウロの言葉を「キリストに倣う者となりなさい」と理解するとより具体的にはなります。しかしながら、それは到底自分たちでは真似のしようがない実現不可能な目標に思えます。全く実現できないことを目標とすることは、とても辛いことになります。
 ところで昔、わたしは公民館の書道教室(漢字)に通っていたことがあります。王羲之の「集字聖教序」が手本でした。「書聖」とも呼ばれる王羲之の書をお手本にしても、とてもその通りにかけるものではありません。一体いつまでこのお手本をやればいいのだろうかと悩みました。その時、書道の先生は、「同じように書けなくても、一生懸命真似て努力することに意味があるんだよ。」と言われました。目標に到達できなくても、その目標に到達しようとして努力し続け、自分なりに成長していけば良いのです。「神に倣う者」、「イエス・キリストに倣う者」も同じです。とても到達できない。それでもそこを目指して一生懸命日々努力することの中で、私たちは成長することができます。イエス・キリストの言葉に聞くこと、イエス・キリストに祈ること、そのようにしてイエス・キリストとの交わりに生きる時、私たちは神様に喜ばれる「神様の子ども」としてより良い者へと育てられるのです。神様が私たちを育ててくださるのです。イエス・キリストに倣う者として歩む時、私たちは神の愛、イエス・キリストの愛をひしひしと感じ、神様に喜ばれる、神様に愛されている子どもとして歩んでいくことができるのです。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 09:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする