2021年11月10日

10月31日 説教要旨

悲しい罪の物語

2021年10月31日 降誕前第8主日(堕落)
創世記第4章1-16節 
牧師 木谷 誠

 クリスマスに向けて旧約聖書を中心に、天地創造、罪への堕落、アブラハム、モーセ、ダビデと神の約束(契約)の歴史をたどります。そこからアドヴェント、キリストの誕生の物語へとつながります。そして12月25日のクリスマスのお祝いを迎えます。
 私が、牧師(厳密には伝道師)になりたての頃、ある青年が、カインとアベルの物語について、「あのお話、悲しいですね」と言ったことが印象に残っています。すごいなあと思いました。なぜならその当時の私は、カインとアベル物語は大嫌いでしたから。この物語も、兄ではなく、弟が選ばれます。そして私は兄でしたから、面白くありませんでした。そして兄弟殺しなどという恐ろしい結果になってしまうことに戸惑ってしまって、よくわからなかったのです。その悲しみとは何でしょうか?それは愛の破れが生み出す兄弟殺しという悲劇だと思います。神に見てもらえない悔しさ、憤りから、血を分けた弟の命を奪ってしまったカイン。人類史上最初の殺人事件は、兄弟殺しであったとは驚いてしまいます。しかし、現実は今でも殺人事件はその半数以上が肉親の間で起こっている事実もあります。そう考えますと何だかやりきれない思いがいたします。
 愛の破れ、それはまず神とカインの間で起こりました。神は、弟アベルの捧げ物に目を止め、カインの捧げ物に目を止められませんでした。なぜなのでしょうか?弟アベルの捧げ物は、捧げ物の形式にかなっていて、カインのはそうでなかったという説があります。形式にこだわる必要はないのではとも思いますが、形式を守ることの中にアベルの信仰が表されていて、カインはその形式を軽んじた。故に信仰のこもった捧げ物になっていなかったのかも知れません。また、神の選びは多くの場合、強さよりも弱さへと向かいます。強い者、豊かな者はそれを受け入れて、弱い者と共に生きなければならない。それが神の御心です。人はそれに従わなければなりません。しかし、それは簡単なことではないのです。実際にカインは従うことができませんでした。
 さらに重要なことは、カインは自分の捧げ物に神が目を止めてくださらないことを激しく憤ったということです。神に見てもらえない中で、神に愛してもらえない。とカインは感じたのでしょう。ここに至って、捧げ物の問題は、愛の問題になりました。神から愛して欲しいのに、神は兄である自分ではなく、弟を選んだ。その愛の破れは、「顔を伏せる」というカインの反応に現れています。彼は、神に対して憤り、神を見失ってしまっていたのです。そのようにして神を見失ったカインは罪に囚われてしまいました。罪は「的外れ(まとはずれ)」という言葉に近く、神という最も重要な「的」を外してしまったカインは、神との交わりから離れてしまいました。そして神との交わりが破れたカインは、人との交わりにも破れていくのです。彼は最も近い関係にある弟アベルを殺害してしまいました。アベルのことを尋ねる神に対して、カインは平気で嘘をつきます。罪を認めず、隠そうとして、嘘をつく。そのようにして罪に罪を重ねていく。これも人間の悲しい罪業です。
 しかし、神は全てをご存知であり、欺くことはできません。カインは、土を耕し、豊かな実りを受ける生活を奪われ、さすらいの生活をすることとなりました。神の厳しい罰です。カインが犯してしまった罪の故ですから、その結果と責任はカイン自身が負うことは当然です。いわゆる「自己責任」です。でもカインは負いきれないのです。このままだと負いきれずに死んでしまうのです。そう訴えるカインに対して、神は憐れみをもって、その身を守ることを約束しました。ここにこの悲しい物語の希望があります。
 この物語はその前の第3章と共に人間の罪の現実をえぐり出します。神を信頼しきれず、見失い、人を憎み、妬み、傷つけ、負いきれない罪を犯してしまい、その結果に責任を取れない人間、その悲しい罪の現実。人間の罪の現実ってそういうものではないでしょうか。そのような愚かで罪深い人間を神は憐んで下さるのです。悲しい罪の物語の希望がそこにあります。神は正しい者だけの神ではありません。悪い者の神でもあるのです。
その鍵は自分のありのままを神に訴えかけるカインの姿勢です。正直に神に向かい合い、憐れみを求める時、罪深い者に対しても神は憐れみを示してくださるのです。
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10月24日 説教要旨

時がある

2021年10月24日 降誕前第9主日・
分区講壇交換(創造)
コヘレトの言葉第3章1-8節
牧師 古谷 健司

 8年前、東日本大震災の被災地で姜尚中(カン・サンジュン)氏の講演を聞いた。「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと神はこの両者を併せ造られた、と。」(7:14)
 3/11は第二の8/15になるはずだった。人が自らの傲慢さに気づき、共に生きる世界を取り戻し始める日となるはずだった。
「貧しくても利口な少年の方が 老いて愚かにになり 忠告をいれなくなった王よりも良い。」(4:13)心を柔らかにし、幼子の笑みに癒される術(すべ)を再び手にしよう。
 「すべては空しい。」(1:2)先のことは分からないからこそ今の命を大切にしよう。災害の最も激しい時期を迎えたことを子どもたちにも伝え、そのことに向き合おう。支え合う力、愛こそが私たちの最後の力なのだから。
 閉会礼拝は私の担当。「姜さん、すべてのわざには時がある(3:1口語訳)んですよ」。姜氏を信仰へと導いた土門一雄牧師の言葉を紹介した。私はその土門先生の「いい教会だよ。行きなさい。」の一言で四国の教会に赴任した。全ては繫がり、全てに時、御神の配慮がある。
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