2021年12月27日

12月19日 説教要旨

見よ、神は確かに顧みられる

2021年12月19日 待降節第4主日(告知)
サムエル記上 第2章1-10節
伝道師 𠮷川 庸介

 神に感謝を捧げるということは、どのような言葉を紡がれて表現されるものなのでしょうか。紡ぐ言葉、表現もそれぞれ違うため一概には言えないとは思いますが、やはりその根幹には、神に感謝というもの決して揺るぎのない確固としたものがあるに違いありません。ハンナの祈りは、そのことを教えてくれるのです。
 ハンナは子どもが長らくできなかったことから非常に肩身の狭いところに身を置いていたようです。当時、子どもを産んで育てるということが、共同体の中で地位を獲得するという価値観が強烈なまでにありました。既に夫のそば目として子供を産み育てていたぺニナは、すでに自分が社会的な評価を得ているということを自覚していたからか、正妻であったハンナを嘲笑し、軽んじるかのような態度をとっていたようです。だからこそ、子供ができたあと、ハンナは主に対してこのような小さな小さな、あなたに仕える一人の女性を顧みてくださったのだと、神への賛美の歌を、紡いだのでありました。
 ところで、このハンナの祈りと、実によく似た賛美の歌としてあげられる一つが、イエスを身ごもったマリアの祈りです。マリアは、賛歌の中で自分のことを取るに足りないはしためと呼び、賛歌の中で権力のある者が衰退し、身分の低い者を高く上げることが詠まれています。一方のハンナの賛歌では、食べ飽きるほどに物を持つ者は、食料を探し求めるところまで低くさせられ、飢える者は二度と飢えることがなく、弱いものを塵の中から立ち上がらせるとあります。こういった共通点からは、権力を持つ者のために手を差し伸べるのではなく、打ち捨てられ、取るに足りないと言われんばかりの人達にこそ、その手を差し伸べるという事実を、言葉をつくし伝えられているように思います。
 こうして見ていくと、ハンナとマリアの祈りとは、その根幹はやはり神への感謝がありますけれども、その感謝を向ける神とはどのような方でしょうか。賛美の歌にありますよう、主は貧しくも、富ませもする恐ろしい方なのでしょうか。あるいは、権力者を墜落させ、下に、下にといる人たちを上へと引き上げることをしてくださるから賛美の歌を歌うのでしょうか。そうではなく、このような私を目にかけてくださり、顧みてくださるからこそ私たちは神を賛美するのだ、と言う確固たるメッセージを私たちは見出すのです。また、彼女達を顧みたと言うその事実は、誰で在っても分け隔てなく、耐え難いほどの状況下に置かれている人に喜びの恵みが与えられることもまた、教えてくださるのです。
 アドベントクランツに4本目の蝋燭が灯り、主を迎える準備の期間を私たちは終えました。主が確かに私たちを顧みてくださったことに想いを馳せ、喜びのクリスマスを迎えましょう。
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2021年12月20日

12月12日 説教要旨

担い、背負い、救い出す神

2021年12月12日 待降節第3主日
(先駆者)
イザヤ書 第46章1-11節
牧師 木谷誠

 わたしがキリスト教信仰を真剣に考えるきっかけ、牧師になろうかなというとなった出会いは、宮崎地区の高校生修養会でした。」KKSなんて呼ばれていました。地区内の高校生や牧師先生方との交わりがそれはそれは楽しかった。それから信徒の皆さん、「この人、なぜそこまでするんだろう」と不思議になる程、一生懸命喜んで奉仕する人がいました。
 そこである牧師先生から、「なぜ、教会に行くのですか?」と問われ、「親がクリスチャンで子どもの頃から教会に通っていて、教会に行くことが習性みたいになっているのです」と答えたら、「それだけではいけませんね」と言われたことでした。自分は昔から教会に通っているということに思い上がっていました。長く教会に通っていることに安住していて、何も考えていないことを反省しました。それから信仰についてもっと真剣に考えよう。聖書をもっと真面目に読んでみようと思ったのでした。ちなみにその牧師先生は、とても面白い方でした。分厚いメガネをしておられて、修養会の夜、お一人でボロボロになったヘブル語の聖書を読んでおられました。この牧師さんが地区の交換講壇でわたしの母教会に来てくださいました。その時、本日の聖書で説教してくださったのです。旧約聖書に示されている神の愛について、熱く、熱く語ってくださいました。そのおかげでわたしは旧約聖書の神は愛の神だと最初から信じるようになりました。そして旧約聖書が大好きになったのでした。
 さて、本日登場するイザヤは南ユダ王国の預言者でした。すでに北イスラエル王国が滅ぼされ、南ユダ王国も、新バビロニア王国の脅威によって、風前の灯のような状態でした。そのような危機の中で、イザヤは、預言者として、南ユダ王国の人々に、神への背きを悔い改めて、神へと立ち返るようにとの神の言葉を伝えたのでした。残念ながら、南ユダ王国は従いませんでした。その結果、国が滅びることになるのですが、そうなっても必ず神はイスラエルを救ってくださるという希望をもイザヤは語りました。
 先ほどお話ししました牧師先生は、「旧約聖書の神は、人間の苦しみの現実に降りて来られて、そこで一緒に苦しんでくださる方、そこで人間の苦しみを担ってくださる方なのだ。」とお話しされました。さらに本日の聖書では、神は、わたしたちを生まれた時から、神に背負っていただいていると書かれてあります。わたしたちの人生を振り返ってみるといかがでしょうか?様々な人生の場面で神様に愛されていたのだなと気付かされるところがありませんか?この聖書を読みながら、私も、自分の人生を振り返ってみました。家庭で、教会で、人生の様々な場面で、素晴らしい出会いが与えられて、導かれてきました。それら全てが神様のご配慮だと思う時、神様の愛に包まれていたのだなと改めて思わされました。
では、私たちはそういう私たちを背負ってくださる神様とどう出会っているのでしょうか?いろいろな形があると思いますが、その中でも大きいのは、人との出会いの中で、私たちは神様が一緒にいてくださることを感じるということです。人との出会いが、神様との出会いにつながっている。違う言い方をすれば、神様は人を用いて、ご自身の愛を伝えることが多いということです。
 そういえば、こういう言葉ありました。先ほどお話しした牧師先生は、実はけっこう「電話魔」でして、私が東北の岩手で独身で教会の主任担任教師と幼稚園の実質園長をしていた時のこと、夜に電話をくださいました。「木谷君、どうしてる。一人なの。ああ、かわいそう。ご飯食べてる?野菜を食べなさいよ。」と温かい言葉をかけてくださいました。教会に一人ぼっち、正直、寂しかったり怖かったりしたことがありました。そんな時にこの牧師先生からのお電話は本当にありがたかった。そしてそれは神様がその牧師先生を通して、愛を伝えてくださった。神様が私を担い、背負ってくださっていたということなのだなと思いました。
 そしてさらに神は私たちの人生に責任を持って、終わりまで関わってくださいます。神様は私たちを「担い、背負い、救い出して」くださいます。私たちの人生に寄り添ってくださいます。このようにわたしたちを「背負い、担い、持ち運ぶ」神は、イエス・キリストによって、旧約の時代よりもさらに明確に示されました。この神に寄り頼んで祈りつつ歩んで参りましょう。
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2021年12月12日

12月5日 説教要旨

悪の道から立ち帰れ

2021年12月5日 待降節第2主日
(旧約における神の言葉)
エレミヤ書 第36章1-10節
牧師 木谷誠

 先週よりアドヴェント、イエス・キリストのお誕生の祝いに向けて備える歩みが始まりました。本日、アドヴェント第二の礼拝のテーマは「旧約における神の言葉」です。昔、よく言われていたことがあります。「旧約聖書は怒りの神、新約聖書は愛の神」という言葉です。本日の聖書を読みますと確かに「旧約聖書は怒りの神」なのかなという印象を受けます。しかし、3節には「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」とあります。神の怒りは最終的な目的ではありません。神は、怒りを示されますが、それはイスラエルが悔い改め、赦しへと導くためなのです。
 そして、忘れていけないことがあります。それは神はイスラエルを愛しておられるということです。どうでもよければ神は悔い改めの呼びかけなどなさらないでしょう。初めにあるのは神の怒りではありません。初めにあるのは神の愛です。これは私たちについても同じです。神はイスラエルを、私たちを愛するゆえに、私たちが罪を犯すと激しい怒りを示されます。それは、悔い改め、神との愛の交わりへと帰ってきてほしいという招きなのです。
 「わたしは、あなたの罪を赦す。だから、わたしの言葉を聞いて、自分の罪に気づきなさい。悔い改めなさい。わたしの赦しを受け取り、わたしのところに帰ってきなさい」と主は呼びかけておられるのです。
ここでもう一つ大切なことは、悔い改めたから赦されるのではありません。悔い改める前に、神は赦しを用意しておられます。悔い改めによってすでに用意されている赦しを受け取るのです。神が罪人を赦し、愛の交わりへと招く「愛の神」であることは、旧約聖書でも新約聖書でも根本的には変わらないのです。
 ここで一つ疑問が出てきます。それは「キリスト教は人の罪を指摘するので、人に対して否定的なの?」、「キリスト教のメッセージ、聖書を読んだら自己肯定感は持てないの?」という問いです。わたしも学生の頃、「自分の良さを活かしたい」と言いましたら、友達が「神の前ではそんなものはないよ」と否定されて落ち込みました。神様の前に出たら確かにそうなのでしょう。でも割り切れない思いがしました。キリスト教を信じたら、自己肯定感は持てず、罪の自覚ばかりが膨らんで、自己否定が全てとなってしまうのでしょうか?そうではありません。神の怒りの前に神の愛があります。それからキリスト教のメッセージには、「否定の向こうにある肯定」、ということがあります。神の言葉は、私たちの罪を指摘します。私たちはそれに打ちのめされます。しかし、そこが最終ではありません。そのような罪深い者の罪の償いを、私たちに代わってイエス・キリストがなしてくださったこと、この罪の贖いのメッセージをキリスト教は伝えています。ここに示された神の愛によって、私たちは、喜びと感謝をもって、神を褒め称え、感謝のうちに神の恵みに応えて生きるのです。その時、私たちそれぞれの個性を、持ち味を神様は豊かに活かし、豊かな喜び溢れる、やりがいのある人生を備えてくださるのです。そのような感謝と賛美の歩みの始まりに悔い改めがあり、そのためには神の言葉に聴くことが大切なのです。特に旧約の神の言葉に聞く時、私たちは自分の罪に気付かされます。それは悔い改めの手がかりとなるのです。
 アドヴェント、御子イエス・キリストのご降誕に備える時、最も良い身支度は、悔い改めです。全知全能の神、正しい方の前で、私たちは取るに足りない者、神の怒りを受けても仕方のない者です。しかし、神は、自分の罪を認め、自分の生き方を改めようとする者に対して、赦しを用意して待っておられます。喜び溢れる愛の交わりへと招いておられます。旧約における神の言葉は、そのようにして、私たちに悔い改めと愛の応答、愛の交わりへと私たちを招いてくれるのです。それは決して新約で新しく始まったことではなく、長い神様の救いの御業の歴史の中で、旧約聖書に豊かに示されています。この旧約の神の言葉を、私たちは大切に味わっていきましょう。その時、私たちは、「否定の向こうにある肯定(大肯定)」をいただいて、喜びと感謝に満たされ、神との愛の交わりを歩んでいくことができるのです。
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