2021年12月12日

12月5日 説教要旨

悪の道から立ち帰れ

2021年12月5日 待降節第2主日
(旧約における神の言葉)
エレミヤ書 第36章1-10節
牧師 木谷誠

 先週よりアドヴェント、イエス・キリストのお誕生の祝いに向けて備える歩みが始まりました。本日、アドヴェント第二の礼拝のテーマは「旧約における神の言葉」です。昔、よく言われていたことがあります。「旧約聖書は怒りの神、新約聖書は愛の神」という言葉です。本日の聖書を読みますと確かに「旧約聖書は怒りの神」なのかなという印象を受けます。しかし、3節には「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」とあります。神の怒りは最終的な目的ではありません。神は、怒りを示されますが、それはイスラエルが悔い改め、赦しへと導くためなのです。
 そして、忘れていけないことがあります。それは神はイスラエルを愛しておられるということです。どうでもよければ神は悔い改めの呼びかけなどなさらないでしょう。初めにあるのは神の怒りではありません。初めにあるのは神の愛です。これは私たちについても同じです。神はイスラエルを、私たちを愛するゆえに、私たちが罪を犯すと激しい怒りを示されます。それは、悔い改め、神との愛の交わりへと帰ってきてほしいという招きなのです。
 「わたしは、あなたの罪を赦す。だから、わたしの言葉を聞いて、自分の罪に気づきなさい。悔い改めなさい。わたしの赦しを受け取り、わたしのところに帰ってきなさい」と主は呼びかけておられるのです。
ここでもう一つ大切なことは、悔い改めたから赦されるのではありません。悔い改める前に、神は赦しを用意しておられます。悔い改めによってすでに用意されている赦しを受け取るのです。神が罪人を赦し、愛の交わりへと招く「愛の神」であることは、旧約聖書でも新約聖書でも根本的には変わらないのです。
 ここで一つ疑問が出てきます。それは「キリスト教は人の罪を指摘するので、人に対して否定的なの?」、「キリスト教のメッセージ、聖書を読んだら自己肯定感は持てないの?」という問いです。わたしも学生の頃、「自分の良さを活かしたい」と言いましたら、友達が「神の前ではそんなものはないよ」と否定されて落ち込みました。神様の前に出たら確かにそうなのでしょう。でも割り切れない思いがしました。キリスト教を信じたら、自己肯定感は持てず、罪の自覚ばかりが膨らんで、自己否定が全てとなってしまうのでしょうか?そうではありません。神の怒りの前に神の愛があります。それからキリスト教のメッセージには、「否定の向こうにある肯定」、ということがあります。神の言葉は、私たちの罪を指摘します。私たちはそれに打ちのめされます。しかし、そこが最終ではありません。そのような罪深い者の罪の償いを、私たちに代わってイエス・キリストがなしてくださったこと、この罪の贖いのメッセージをキリスト教は伝えています。ここに示された神の愛によって、私たちは、喜びと感謝をもって、神を褒め称え、感謝のうちに神の恵みに応えて生きるのです。その時、私たちそれぞれの個性を、持ち味を神様は豊かに活かし、豊かな喜び溢れる、やりがいのある人生を備えてくださるのです。そのような感謝と賛美の歩みの始まりに悔い改めがあり、そのためには神の言葉に聴くことが大切なのです。特に旧約の神の言葉に聞く時、私たちは自分の罪に気付かされます。それは悔い改めの手がかりとなるのです。
 アドヴェント、御子イエス・キリストのご降誕に備える時、最も良い身支度は、悔い改めです。全知全能の神、正しい方の前で、私たちは取るに足りない者、神の怒りを受けても仕方のない者です。しかし、神は、自分の罪を認め、自分の生き方を改めようとする者に対して、赦しを用意して待っておられます。喜び溢れる愛の交わりへと招いておられます。旧約における神の言葉は、そのようにして、私たちに悔い改めと愛の応答、愛の交わりへと私たちを招いてくれるのです。それは決して新約で新しく始まったことではなく、長い神様の救いの御業の歴史の中で、旧約聖書に豊かに示されています。この旧約の神の言葉を、私たちは大切に味わっていきましょう。その時、私たちは、「否定の向こうにある肯定(大肯定)」をいただいて、喜びと感謝に満たされ、神との愛の交わりを歩んでいくことができるのです。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする