2021年12月20日

12月12日 説教要旨

担い、背負い、救い出す神

2021年12月12日 待降節第3主日
(先駆者)
イザヤ書 第46章1-11節
牧師 木谷誠

 わたしがキリスト教信仰を真剣に考えるきっかけ、牧師になろうかなというとなった出会いは、宮崎地区の高校生修養会でした。」KKSなんて呼ばれていました。地区内の高校生や牧師先生方との交わりがそれはそれは楽しかった。それから信徒の皆さん、「この人、なぜそこまでするんだろう」と不思議になる程、一生懸命喜んで奉仕する人がいました。
 そこである牧師先生から、「なぜ、教会に行くのですか?」と問われ、「親がクリスチャンで子どもの頃から教会に通っていて、教会に行くことが習性みたいになっているのです」と答えたら、「それだけではいけませんね」と言われたことでした。自分は昔から教会に通っているということに思い上がっていました。長く教会に通っていることに安住していて、何も考えていないことを反省しました。それから信仰についてもっと真剣に考えよう。聖書をもっと真面目に読んでみようと思ったのでした。ちなみにその牧師先生は、とても面白い方でした。分厚いメガネをしておられて、修養会の夜、お一人でボロボロになったヘブル語の聖書を読んでおられました。この牧師さんが地区の交換講壇でわたしの母教会に来てくださいました。その時、本日の聖書で説教してくださったのです。旧約聖書に示されている神の愛について、熱く、熱く語ってくださいました。そのおかげでわたしは旧約聖書の神は愛の神だと最初から信じるようになりました。そして旧約聖書が大好きになったのでした。
 さて、本日登場するイザヤは南ユダ王国の預言者でした。すでに北イスラエル王国が滅ぼされ、南ユダ王国も、新バビロニア王国の脅威によって、風前の灯のような状態でした。そのような危機の中で、イザヤは、預言者として、南ユダ王国の人々に、神への背きを悔い改めて、神へと立ち返るようにとの神の言葉を伝えたのでした。残念ながら、南ユダ王国は従いませんでした。その結果、国が滅びることになるのですが、そうなっても必ず神はイスラエルを救ってくださるという希望をもイザヤは語りました。
 先ほどお話ししました牧師先生は、「旧約聖書の神は、人間の苦しみの現実に降りて来られて、そこで一緒に苦しんでくださる方、そこで人間の苦しみを担ってくださる方なのだ。」とお話しされました。さらに本日の聖書では、神は、わたしたちを生まれた時から、神に背負っていただいていると書かれてあります。わたしたちの人生を振り返ってみるといかがでしょうか?様々な人生の場面で神様に愛されていたのだなと気付かされるところがありませんか?この聖書を読みながら、私も、自分の人生を振り返ってみました。家庭で、教会で、人生の様々な場面で、素晴らしい出会いが与えられて、導かれてきました。それら全てが神様のご配慮だと思う時、神様の愛に包まれていたのだなと改めて思わされました。
では、私たちはそういう私たちを背負ってくださる神様とどう出会っているのでしょうか?いろいろな形があると思いますが、その中でも大きいのは、人との出会いの中で、私たちは神様が一緒にいてくださることを感じるということです。人との出会いが、神様との出会いにつながっている。違う言い方をすれば、神様は人を用いて、ご自身の愛を伝えることが多いということです。
 そういえば、こういう言葉ありました。先ほどお話しした牧師先生は、実はけっこう「電話魔」でして、私が東北の岩手で独身で教会の主任担任教師と幼稚園の実質園長をしていた時のこと、夜に電話をくださいました。「木谷君、どうしてる。一人なの。ああ、かわいそう。ご飯食べてる?野菜を食べなさいよ。」と温かい言葉をかけてくださいました。教会に一人ぼっち、正直、寂しかったり怖かったりしたことがありました。そんな時にこの牧師先生からのお電話は本当にありがたかった。そしてそれは神様がその牧師先生を通して、愛を伝えてくださった。神様が私を担い、背負ってくださっていたということなのだなと思いました。
 そしてさらに神は私たちの人生に責任を持って、終わりまで関わってくださいます。神様は私たちを「担い、背負い、救い出して」くださいます。私たちの人生に寄り添ってくださいます。このようにわたしたちを「背負い、担い、持ち運ぶ」神は、イエス・キリストによって、旧約の時代よりもさらに明確に示されました。この神に寄り頼んで祈りつつ歩んで参りましょう。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする