8月9日 説教要旨

ご自身を与えられる神

2020年8月9日
聖霊降臨節第11主日・聖餐
ヨハネによる福音書第6章41-52節
牧師 木谷 誠

「キリスト教ってどんな宗教?」と問われると、いろいろな答えがあると思います。今回は「キリスト教徒は分かち合いの宗教です」と答えてみましょう。神様は、ご自分が作った素晴らしい世界を私たちに分かち与えてくださいました。世界は神様から分かち与えられた恵を喜ぶ場所です。そして分かち合いは喜び、慰め、励ましをもたらしてくれます。
今日の聖書において、「わたしは天から降って来たパンである」とのイエスの言葉はユダヤ人たちを戸惑わせました。理由はイエスのことをよく知っていたからです。その知識から抜け出せませんでした。知らなければ、もっとイエスの言葉に真剣に耳を傾けようとしたことでしょう。自分が知っていることが相手の全てだと思ったら大きな間違いです。それを忘れて、自分の知るところで全てを判断しようとすると。大切な事柄を見落としてしまうのです。
「わたしは天から降って来たパンである」と言う謎めいた言葉でイエスが伝えたかったことは一体何だったのでしょうか?これも実は分かち合いなのです。「天から降って来た食べ物」ということでユダヤ人たちがすぐ思い浮かべるのはマンナです。マンナは、エジプト脱出の旅の途中、空腹を訴えるイスラエルの民を養うために神が天から降らせた食物でした。このマンナは、イスラエルを養う神の恵みでした。しかし、イスラエルの民はこの神の恵みを生かせませんでした。彼らは一時的には空腹を満たされ、神の恵みを信じても、すぐにまた空腹になると神の恵みを忘れてしまいました。そのようなイスラエルの不信仰の罪により、マンナによる養いは一時的なものにとどまりました。しかし、イエスは、一時的なものにとどまらない永遠の養いとしてご自身を分かち与えられます。ご自身の命を分かち与えられるのです。それは永遠の命です。ここでの「永遠の命」とは、いわゆる「不老不死」、永遠に老いず、死なないことではありません。死を超えた永遠の愛の交わり、死によってすら決して失われない永遠の愛の交わりを意味しています。それは元々イエスが父なる神との間に持っておられたものです。その永遠の命、永遠の愛の交わりを、イエスは私たちにも分かち与えてくださるのです。それは決して簡単なことではありませんでした。人の罪が邪魔をするからです。その罪の償いとして、イエスはご自分の命を捧げられました。それによって罪がゆるされ、神との永遠の愛の交わりが、私たちにも分かち与えられました。イエスがそのようにして実現してくださった永遠の命を、私たちは信じることによっていただくのです。それを象徴する儀式が聖餐式です。私たちがイエス・キリストによって出会う神はそのようなご自分を分かち与える神なのです。
この分かち合いの神との出会いに答え、私たちも分かち合いを行う時、そこにキリスト教の大きな喜びがあります。まず日々、神様と分かち合いましょう。分かち合いには信頼関係が大切です。神様ほど信頼できる方は他におられません。安心して神様と分かち合いましょう。それは具体的には聖書を読み、祈ることです。聖書を読むことにより、神様からお恵みを分かち与えていただくことができます。自分に分かち与えてくださっている神様の恵みに気づくことができます。そして祈る時、私たちの思いを神様と分かち合うことできます。そのような分かち合いの中で、私たちは大きな慰め、励まし、喜びをいただくのです。
 それからもう一つは、人との分かち合いです。日々の出会いの中で、悩む人、重荷を負っている人の側に寄り添うこと、向き合うこと、聞くこと、共に祈ること、奉仕することを通して、喜びを共にすることができます。苦しみを共にすることができます。そのような営みの中で、私たちは豊かな分かち合いの喜びと慰めが与えられて日々を歩むことができるのです。

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