7月26日 説教要旨

名を呼ぶ神

2020年7月26日 聖霊降臨節第9主日・(破局からの救い)
イザヤ書 第43章1−7節
牧師 木谷 誠

 学生の頃、先輩の下宿によく遊びに行きました。とても博学な方でした。残念なことに私がこの今治教会に赴任して間もなく、若くして召されていかれました。
 その先輩が創世記22章1節(神がアブラハムよ」と呼びかけ、彼が「はい」と答えると)を引用して「旧約聖書の要点はここにつきます」と教えてくださいました。その時にはわかりませんでしたが、長い年月、繰り返し、その先輩の言葉を思い出しながら、示されたことは、旧約聖書は、呼びかける神とそれに応える人間の歴史であるということなのだと思い至りました。すなわち旧約聖書(新約聖書も)の神は呼びかける神、名を呼ぶ神ということができます。人が見つけて、呼びかけた神ではなく、人の呼びかけに先んじて、人を見つけて、呼びかける神が、旧約聖書が伝える神であると合点がいきました。まさしく本日のイザヤ書もそれを伝えています。神は、イスラエルの名を呼ぶ神、呼びかける神なのです。さらにこの神は遠くから呼びかけるだけではなく、イスラエルと共にいてくださる神です。イスラエルの苦難の旅路に寄り添ってくださり、導きと助けを下さる神です。そのような意味において、この神は救いの神ということができます。かつてイスラエルをエジプトの奴隷の苦しみから救い、今はイスラエルを、ペルシャを用いて、バビロンでの奴隷の苦しみから救い出そうとされます。この神は、歴史の中で、イスラエルの名を呼び、寄り添い、具体的に働いて、イスラエルを救い出す神です。この神の行動は「贖う(あがなう)」という言葉でもって表現されています。これは「代価を払って買い戻す。代価を払って解放する」という意味の言葉です。ここでは、代価を払って、イスラエルをバビロンの奴隷の苦しみから救い出すという神の約束を表しています。その代価がエジプトとクシュとセバだというのです。この三つの国はいずれもとても豊かな国です。それに比べてイスラエルは小さな弱い国です。神はイスラエルを愛されました。そのゆえにイスラエルを尊いもの(値高い)ものとされたのです。小さな弱いイスラエル、惨めな奴隷の群れを、豊かなエジプトやクシュやセバよりも尊いとしてくださいました。どうしてそんな不合理な非効率的なことをなさるのでしょうか?理由はありません。ただ愛したから、それだけです。愛には理由がないのです。愛は不合理です。
このイスラエル に注がれた神の愛は、今日私たちにも注がれています。神は御子イエス・キリストの命を「身代金」として捧げ、私たちを罪の奴隷から解放してくださいました。そこには、いと小さき者をただ愛される神の恵みが示されています。これほどまでに大きな神の愛にどのようにお応えしたら良いのでしょうか?この神の恵みに見合う「お返し」などとてもできません。でも、これほどまでに大きな恵みをいただいた喜びに満たされる時、この神の恵みに応え、神に喜ばれる歩みをなしていきたいと願わずにはいられません。
それは一体どういうことでしょうか?

レビ記/ 19章 34節
あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。

 寄留者とは外国から移住してきた人です。その国にもともといる人には当たりあえのように与えられている権利を持たない弱い立場の人々のことです。ここでの寄留者は、文字通りの意味ばかりでなく、その社会にあって弱い立場の人々と理解したら良いと思います。
神の愛の眼差しに倣って、今、弱い立場にいる人、苦しみを負うている人に寄り添い、自分のなすべきことをなして、愛の業にことだと思います。

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