7月19日 説教要旨

杖に導かれて

2020年7月19日 聖霊降臨節第8主日・(復活の希望)
ミカ書 第7章14−20節
伝道師 𠮷川 庸介

 ある学者曰く、人という生き物は、自分で考えるより人に指示されることを楽に思うものであり、カリスマを持つ人が上に立つことは、人が絶対的な支配者や、指導者を求めるからである、とのことです。絶対的な権力者に従うことは、自分に利益をもたらすからか、あるいは恐怖によるところが大きいのでしょう。それは非常に分かりやすい理由です。では、主に従うとは何でありましょう。自分に利益を与えると見据えたから、あるいは恐れからこうべを垂れて、従うのでしょうか。
 ミカ書の7章から私たちが想像させられるのは、収穫物全てを奪われた畑の光景、自分が欲してやまない収穫物は、もはや口にすることは叶わず、誰もが人を蹴落とそうとする、安寧などない世界であるという事実です。しかしミカは、その事実を受け入れ、挫けようとはしません。苦しみを受けるのは、自分が神を信じることができず、心が離れてしまったからである。ゆえに、この苦しみを甘んじて受けよう、主はかならずやこの小さく罪深い自分をかえりみてくださると告白します。
 ミカの言葉は、想像することが難しいものです。ミカの故郷はアッシリアという世界帝国に蹂躙されていました。自分の故郷を守ってくれなかった神に対し、普通であれば無用の長物と切り捨てそうなものです。私たちも、それまで信じていたものが何の役にも立たないと思った時、急に距離を感じ、熱が冷めてしまいがちなことを思い浮かべると、ミカが祈ることをやめなかった事実は、どこか距離を置いて見てしまいます。
ミカの姿を周囲の人たちもまた、奇異なものを見るように眺めたことでしょう。その目に晒されながら、ミカは絞り出すように信仰を告白します。あなたの杖をもって導いてください、と。これは羊が先導する人に付いていくのと同じように、神を先導者として人がついていくことを、神が前に立って作られる道を歩むことを願うと切々と語るのです。
 その祈りに対し、神から必ずや救い出すという約束の言葉が臨みます。そこまで見ると、あぁ、ミカの信仰が報われた、このように信仰を持ち続けることは無駄ではないのだ、とも思います。しかし、またここで考えさせられるのです。もし神からの応答がなければ、どうであったのか。あくまで神からの応答があったからミカの信仰は美しいもののように描かれているが、無かった時にはどう解釈すべきか。私たちは目に見えるものが与えられることを前提に神を信じているのだろうか、と。
 神に導かれる、神に付いていくということは、目に見える利益が与えられるからではありません。むしろ、利益を前提とするなら神を信じる必要性はありませんし、権力者に従えば良いのです。私たちが神を信じるのは、マタイやルカの福音書で、百匹から迷い出た一匹を捨ておかずに追いかけ、見つけて抱きしめ、離すまいとするその神の優しさと暖かさを信じるからです。神が掲げる杖に従うということは、最後まで私たちに寄り添おうとする神の慈しみを喜び、そして実感して歩むことです。時に挫けることもありましょうが、神の慈しみを思いつつ、祈りながら歩む日々を歩んで参りたいと思います。

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