光の子として歩みなさい
2020年9月6日
聖霊降臨節第15主日(新しい人間)
エフェソの信徒への手紙5章11-20節
牧師 木谷 誠
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ5:8)との言葉はとても大切です。神様に背き、罪に縛られ、暗闇にいた私たちが、イエス・キリストにより、罪のゆるしを受け、神様との愛の交わりに入れられました。この神様の恵に感謝し、応えて生きるにはどうしたら良いでしょうか?
大きく二つに分けて言うことができます。一つは「神様に喜ばれるように」生きる、一つはその裏返しとして「神様に悲しまれないように」生きるということです。前者は善(神様に喜ばれること)を行う生き方、後者は悪(神様に喜ばれないこと)を行わない生き方です。10節では、主に喜んでいただくために、自分の思いと言葉と行い(生き方全体)を吟味しなさいと勧めます。続いて11節では、悪から離れることが勧められます。悪の誘惑はとても恐ろしいものです。常に主に助けを求めなければなりません。そしてさらに悪を行う人を見たならば、その罪と過ちを指摘してあげなさいと勧められます。明るみに出しなさいとは、人前でその人の罪を暴き出しなさいということを必ずしも意味しません。「明るみに出しなさい」とは神様のみ前に明らかにしなさいということです。その人の行動や思いや言葉を、神様の御心に照らして吟味するようにしなさい。その人に考えてもらいなさいということです。そしてその人が自分で罪に気付いて悔い改めることができるように導いてあげなさいと勧められます。これは勇気のいることですが、大切です。自分では気づかないうちに、罪と過ちを犯していることがあるからです。兄弟姉妹からの「耳に痛い言葉」を素直に受け止めることもとても大切です。そのようにして私たちは、罪から離れ、闇から光へと帰っていくことができるのです。
さらに神様に喜んでいただく者として歩むためには、賢い者となることが必要です。賢い者とは?賢い者とは勉強ができる者とか頭が良い者ではありません。「知恵ある者」のことです。そして真の知恵ある者とは、常に主を畏れる者のことです。「主を畏れることは知恵の初め。(箴言1章7節)」。とある通りです。では「畏れる」とは?ここで「恐れる」ではなく、「畏れる」という字が用いられていることに注目したいと思います。「恐れる」という時、そこにあるのは恐怖で縛られたとても貧しい関係です。信頼感もなければ親しみも愛も存在しません。しかし、「畏れる」という意味はもっと豊かです。相手を敬い、信頼し、その導きに委ねる、親しみをもって呼びかける、常に心に留める。そのような意味で主を「畏れる」者こそ、真の知恵ある者、賢い者なのです。そして主を「畏れ」、敬い、常に心に留め、主に呼びかける中で、主は聖霊を私たちにくださいます。この聖霊に満たされる時、私たちは恵に満たされ、心燃やされて、主をほめたたえ、感謝して歩んでいけるのです。
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