9月13日 説教要旨

偽り者の言い分

2020年9月13日 聖霊降臨節第16主日
ヨハネによる福音書第8章37-47節 
伝道師 𠮷川 庸介

 本日の聖書箇所には、「偽り者」という単語が出てきますが、この言葉を直訳すると「嘘をいう人」であります。彼らに対し、イエスは「あなたたちは神に属していない」といった厳しい言葉を投げかけ痛烈に批判しています。とはいえ、偽り者と呼ばれる人たちは意図的に嘘を言うのではなく、彼らなりの信念をもってイエスの言うところに反対しているのです。そんな彼らの信念の、一体どこが偽りありと言われているのかを明らかにし、神が求められることを読み解いて参りたいと思います。
 偽り者と呼ばれた人々は、かつて神より祝福されたアブラハムの子孫であると語り、また姦淫により生まれたのではないとも語っています。これらの言葉は、先祖がアブラハムとの誇り、そして先祖代々律法を守ってきたとの自負を読み取れます。ゆえに、イエスによる罪からの解放、真理を理解しない、といった言葉に対し、我々は十分に条件を満たす者である、という思いが前面に押し出され、イエスの言葉に反発を覚えているのです。しかし、このような「偽り者」達の自分への理解というものは、やはり誤りなのです。イエスが罪とか、真理と言われることの根本には罪についての理解が付随します。罪とは、律法を破り、犯罪に手を染めてしまうことを指すのではありません。ここで言われる罪とは、神に従わないことを指します。そもそも、神に従うとは一体どのような意味でありましょうか。
 それは、「ただ」律法に従うことではないことであります。律法に従うとは本来、自分とはどうしようもなく利己的であるとか、過ちを犯す弱い存在であることを自覚し、悔いながら神にこうべを垂れ、従うことを指します。律法に対し、形式的に従っているだけの状態や、自分はなんら罪に汚れる「行為」はしていないという点を強調することは、全く論点が異なっているのです。罪を犯さないことの始まりは、倫理的に正しいか、ということでしょう。偽り者達はそれは守れていたかもしれません。しかし、もし罰せられる法律がなければ、彼らはそれを守っていたことでしょうか。また、心に抱くことすらもあってはならぬこと、例えば相手を憎むことが無いと言い切り、律法に書かれていることを守っていると、神を前にして背筋を伸ばし、自らの潔白を誓えるのでしょうか。少なくとも私などは、口が裂けたとしても誓うことなどはできないと言わざるを得ません。
 かつて律法を課した神は、人が多くの場合守りきれないことをよくご存じでありました。ゆえにイエス、という方を私たちのために送られたのです。イエスが十字架にかけられたのは、まさに人の罪―心の汚れ、傲慢、己を偽る心―のためでした。このように、あらゆる汚れを負わされながらも、イエスは私たちに向かって、このあらゆる汚れを背負い、私はお前たちをゆるすと語り、自らの運命を全て受け入れて死なれたのであります。
 己の罪深さを認めることは計り知れない難しさがあるものです。それゆえに、時には神の真意はこうあって欲しいとの願いを抱えることがあります。気がつかないうちに、神が願われていた真意をねじ曲げて偽りを言う者−すなわち、偽り者−となるのです。しかし、己の至らなさを認めることなく形式的に良いとされること、すなわち、ただ律法に従うことを行っていた人々をイエスは非難されたことを、そこに神の真意があることを心に刻み、己を振り返りつつ歩む者でありたいと思うのです。

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