9月20日 説教要旨

声を知る

2020年9月20日 聖霊降臨節第17主日・創立記念礼拝
ヨハネによる福音書第10章1-6節 
牧師 木谷 誠

 私たちの今治教会は、創立141周年となりました。1879年9月21日、アッキンソン宣教師、新島襄を迎え、教会設立礼拝、横井時夫の牧師任職、按手礼が行われ、今治教会として歩みが始まりました。以来、今治教会は、今治のみならず、松山、東予地域の伝道の拠点となりました。また今治市の中心産業の担い手を多く生み出し、教育、福祉などを含めて、今治市の近代化に大きく貢献しました。そんな過去の歩みを導いてくださった神に感謝し、これから新しく歩み出す時、私たちは誰を信頼し、自分を委ね、導きとするのでしょうか?ヨハネによる福音書のメッセージを分かち合いたいと思います。
 ヨハネによる福音書において、イエスの言葉に多くの人が戸惑い、よく分かりませんでした。10章41節「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」というイエスの言葉もファリサイ派の人々にはわからなかったことでしょう。ファリサイ派の人々は、律法をよく学び、守っていました。だから自信がありました。自分たちは神をよくわかっている、「見えている」。他の人とは違う。「罪人」とは違うという自負があったことでしょう。
 だからイエスの力ある業や教えを聞いても、受け入れようとはしませんでした。先週の聖書箇所ヨハネによる福音書第8章46節「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。」とある通りです.ではなぜ、ファリサイ派の人々はイエスを受け入れなかったのでしょうか?それは彼らが知らず知らずのうちにおごり高ぶっていたからだと思います。自分たちは、清い者である、他の「罪人」たちとは違う。そのおごり高ぶりが、彼らに真理をもたらすイエスの言葉を受け入れ難くしていたのでしょう。しかし、神の御心はイエスを通して伝えられます。10章7節にある通り、イエスは「羊の門」であり、同時に「良い羊飼い」なのです。このイエスを通して、神は救いを伝えられます。そのイエスを受け入れない者は、羊の門から入ろうとしない盗人だと、イエスは言っているのです。
 ところで皆さんが羊だったら、自分を任せるのは、盗人でしょうか、それと羊飼いでしょうか?答えは明らかです。羊が羊飼いでななく、盗人に自分を任せてしまったら破滅です。あのイエスを裏切ったユダはその罪を後悔し、祭司長や長老たちに「私は罪を犯しました」と告白しました。その返事は「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」でした(マタイ27:4)。ユダは自殺しました。もうそれしかなくなってしまいます。イエスならどうだったでしょうか?「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(マルコ10:45)。」イエスは罪人の救いのために命を捧げられたのです。私たちはこの方によって救われました。誰を羊飼いにするかを間違えるとこれほどまで違うのです。
 創立記念日に際し、このヨハネによる福音書の物語私たちがまず教えられる大切な第一の事柄は謙遜です。思い上がってはなりません。思い上がりは大切なイエスの言葉から心を閉ざしてしまいます。そして大切な第二のことは、低い心でイエス・キリストを受け入れることです.イエス・キリストを「羊の門、良き羊飼い」として、受け入れ、素直にイエスの言葉に従う者となることです。
この方の導きなくして、正しい道を歩んでいけるほど、私たちは強くありません。そのことを覚え、導き手である羊飼イエス・キリストに聞きつつ歩んでまいりましょう.羊飼であるイエスは常に羊である私たちの名を呼んで導き出そうとしてくださっています。その声に常に聞き従い、イエスの声を知るものとして歩みましょう。

この記事へのコメント