イエスを信じるために
2020年10月4日 聖霊降臨節第19主日
世界聖餐日、世界宣教の日(神の富と知恵)
ヨハネによる福音書第10章31-42節
牧師 木谷 誠
ユダヤ人たちはイエスを石で撃ち殺そうとします。30節の「私と父とは一つである」という言葉を聞いて、ユダヤ人たちはイエスが神を冒瀆していると理解したからです。「神を冒涜する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。(レビ記24章15-16節)」とある通りです。ユダヤ人たちに対して、イエスは、旧約聖書の中で神に仕える人々を「神々、神の子」と呼ぶ例(詩編82編6節)を引用しています。イエスは、自分も神に遣わされた者である故に自分を「神の子」であると言っているのであって、決して神を冒瀆しているのではないのです。その上でユダヤ人たちに対して、イエスは自分を信じなくても良いが、自分の業が神の働きだと信じなさいと求めます。イエスの業を信じるならば、それが神の業であると認めざるを得ません。そうなるとそれを行うイエスが神から遣わされた者、そして神の子であることを認めざるを得なくなるのです。しかし、ユダヤ人たちにとって、それを認めたら自分たちの信望をイエスに奪われることになります。イエスが神の子であることは、自分達の立場を脅かす「不都合な真実」です。故に彼らは信じようとせず、イエスを石で撃ち殺そうとします。それからもう一つ、彼らがイエスを信じない原因は彼らのおごり高ぶり、頑なさです。「イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネによる福音書第9章42節)とある通りです。「見える」、「わかっている」というユダヤ人たちの自信は、おごり高ぶりとなっていました。そして自分の考え、思いは決して絶対的なものではなく、それと違うところにも神様の真理があることを見ようとしなくなり、大切な神様の真理を見えなくしてしまうのです。
イエスはヨルダン川の向こう側へ退きました。そこはイエスの活動の出発点であり、洗礼者ヨハネと出会った場所でした。そこにかつて洗礼者ヨハネの言葉を聞いた人々がやってきました。彼らはイエスの力ある業を見、ヨハネの言葉が真実であったことを悟り、イエスを神から遣わされた者と信じることができました。
本日の物語には二種類の人々が登場します。イエスを神から遣わされた者と信じない人々と、信じた人々です。どこが違ったのでしょうか?それはおごり高ぶった心と素直にへり下った心の違いでした。ユダヤ人(おそらくファリサイ派の人々)は、とても真面目に聖書を学び実践する人たちでした。その自信がおごり高ぶりに繋がってしまったのでした。真面目だからこそ、一生懸命だからこそ陥る過ちがあること、神様の御業を見失うことがあることを自戒したいと思います。一方、イエスを信じることができた人々は、聖書に直接書いてはいませんが、へり下った、素直な心でイエスの言葉を聞き、その上で力ある業を見た人々であったのだと思います。そのような心のあり方がイエスを神から遣わされた者、メシアと信じることを可能とするのです。知識や能力、実績ではありません。そしてイエスをメシアと信じる者は、永遠の命、神との永遠の愛の交わりをいただくことができます。そのようなへり下った素直な心になるために、聖霊(神様の目に見えない力)の助けを祈り求めましょう。そして永遠の命の喜びへとつながる歩みを神との愛の交わりに生かされて歩んで参りましょう。
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