10月11日 説教要旨

生ける神を礼拝するために、わたしたちの良心を清めてくださる方

2020年10月11日 聖霊降臨節第20主日・
創立記念特別伝道礼拝・神学校日・
伝道献身者奨励日(永遠の住み家)
ヘブライ人への手紙第9章6-14節
牧師 小原 克博

 この聖書箇所は良心とは何か、また、良心とキリストの十字架はどのような関係にあるのかを考える上で重要な箇所です。また、「ヘブライ人への手紙」全体の内容を考えると、この手紙は、コロナ時代において私たちが向き合うべき課題を考えるために、非常に示唆的な内容を含んでいることに気づかされます。端的に言えば、この手紙は、古い時代から新しい時代への変化を問うており、そのことは「改革の時」(9:10)という表現にも示されています。
 新約聖書の諸文書が書かれた時代、地中海世界では、神殿祭儀や律法(ユダヤ教の伝統)をめぐり多様な立場の人がいました。多くの教会は異邦人とユダヤ人が入り交じっていました。また、同じユダヤ人の間においても、伝統の解釈をめぐり意見の相違がありました。
 新約聖書、特に手紙類を読むときには、時代背景として教会内部においても数々の緊張関係があったことに注意を向けることが大切です。現代の私たちは、聖書を心の指針、信仰の糧として読みますが、新約文書の多くは具体的な問題を解決するための指南書としての側面を持っています。パウロの手紙に一貫して見られる緊張関係は、ユダヤ人と異邦人、律法と福音の関係です。また、ヘブライ人への手紙においては、(旧約)聖書の祭儀と福音の関係が問われています。この手紙は、イエスの生涯・十字架・復活を、福音書とは異なる形で語り直しています。聖書の祭儀を中心にイエスを語っている非常にユニークな手紙です。そこでは、自らを犠牲として捧げ、神に至る道を開いた大祭司イエスが主題とされています。
 犠牲の祭儀は聖書に繰り返し出てきますが、現代の私たちから見ると、いかにも大昔のことで、私たちには関係ないと思うかもしれません。しかし、犠牲を捧げる祭儀はなくなっても、人に犠牲を強いる国家や社会は今に至るまで続いており、犠牲は繰り返し求められるという点で、決して過去の話ではないのです。
 キリスト教はその最初期から犠牲を捧げない宗教として出発しましたが、それは当時においては異例なことでした。教会の礼拝は、当時の宗教儀礼や宗教そのものに対する「挑戦」となっていました。それは礼拝「改革」であり、宗教「改革」でした(9:10参照)。
 供え物が献げられても良心が完全にならないこと(9:9)、キリストの血によってこそ、良心は清められ、神を礼拝できるようになること(9:14)が記されており、これが「改革」の核心であると言ってよいでしょう。加えて、この手紙でもっとも大事なメッセージは、繰り返され続けてきた犠牲の祭儀の完成としてイエスの十字架があるということ、それゆえ、もはや犠牲を献げる必要はないということです(10:11-13)。
 長い歴史の中で、多くの宗教は人々の犠牲を正当化し、犠牲を求めてきました。宗教が定めたルールを守るのが良心の働きでした。しかし、それは不完全な良心であることを本日の聖書箇所は示しています。キリストの血による贖いは「良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせる」(9:14)とあります。この世には、なおも無数の犠牲が存在しています。その現実から目をそらすことなく、キリストによって清められた良心を発揮することによって、私たちは大祭司イエスの招きに応えることができるのです。

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