10月18日 説教要旨

 この希望を胸にして

2020年10月18日 聖霊降臨節第21主日・
(天国に市民権を持つ者)
エレミヤ書第29章4-14節
伝道師 𠮷川 庸介

 本日の聖書箇所で語られる、イスラエルの人々は戦争に負け、捕囚を経験します。この捕囚は、監視はありましたが、けっして虐待や暴力によって虐げられていた、ということはなかったようです。それでも生活は一変し、真綿で首を絞められるような苦しみを味わっていたことでしょう。コロナ禍である今、新しい生活様式となり、少しずつ鬱屈とさせられる今の状況を彷彿とさせられるように思います。
 そんな捕囚の民に対し、神は住んでいる街のために祈り、平和の実現に尽力せよ、というのです。すなわち、神は今の状況を受け入れ、それこそが日常と思えというのです。なかなかに、納得がいきにくい言葉ではないでしょうか。しかも、これらは全て計画であり、「お前たちに将来と希望を与えるものだから」と言われれば、神はなぜ私たちをこのような目にあわせるのだろうか、と怒りを抱きそうであり、その将来と希望は、今、求めて止まないものだと、叫びたくもなります。ですが、その叫びだけに止まるのではなく、なにゆえこんなことを語りかけてくるのかと、その真意はどこかを見る必要があります。それは、次のようなことでありましょう。
 一つには、今の状況を憎みながら過ごすのではなく、それを抑え込み、せめてできることを行いなさいと教えているのです。「町の平和を実現するように」との言葉には、やがてくる日に対する備えをしなさいと優しく語る、言うならば、親が子供にいつも言うような口ぶりで民を気遣う神の姿を見ます。
 ですがもう一つ、ハッとさせられることがございます。それは、神を求めるということは、自分が望む安穏とした状況下でなければできないことなのか、ということであります。神は、今いる街の平安を望め、そしてそのために私に祈れ、と言われますが、望んだ通りの日常でなければ、私たちは神を求めようとも思わないのか、そうしない神に祈る意味は本当にないのか?という問いが出てくるのです。
 その問いへの答えは、どのような場所であっても、状況が一変した中でも、変わらないものが確かにある。それは、私たちのことをいつも考え、声に応えようとしてくださるのが神であること、私たち人にできることは祈り、神を求めることである、ということです。この祈りなさい、求めなさいとの言葉は、決してその場しのぎのような言葉ではありません。「お前たちが心を尽くして私を求めるならば、必ず私と出会う」とあるように、祈りの果てに私たちの前に現れ、真意を悟らせて喜びをもたらすのだと、聖書を通し教えてくださっているのではないでしょうか。
 本日の箇所は、紛れもなく私たちに希望を与える箇所であります。希望と言いますと、モンテ・クリスト伯の「待て、しかして希望せよ」という言葉を思い出します。この言葉の前には「主が人間に将来のことをわからせてくれるその日まで」とありますが、単に困難や逆境にあっても諦めない、というだけではなく、「神」が介在する希望を語っているのです。己には決して分からないところに神の働きというものがあって、それを悟らせてくれるその日まで希望を持って待とうではないか、というのです。
 希望とは、たとえどんな日常が変わろうと、いかなる時でも動じず、変化せずそこにあるものが神であるのだから、今ある状況の中で祈り求めることです。なぜなら、必ずや最後に神がその意味を悟らせてくれるからです。苦難の中でありますが、その中でなおのこといっそう、神を求め祈るものでありたいと思います。

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