集められる喜び
2020年11月22日 降誕前第5主日
収穫感謝日・謝恩日(王の職務)
ミカ書第2章12-13節
牧師 木谷 誠
降誕前第5主日となりました。12月25日のクリスマス、12月20日のクリスマス礼拝、イエス・キリストのお誕生をお祝いする準備が始まっています。
今年、一番大きな出来事は新型コロナウイルスでした。世界全体がこのウイルスによって大きく揺れ動きました。経済活動も交通もとても大きく制限されました。学校もお休みとなりました。世界全体がとても大きなダメージを受けました。教会も4月19日から5月24日まで礼拝ができなくなりました。こんなことは今までなかったことでした。そして5月31日、久しぶりに礼拝ができました。その時、みんなが一緒に集まって礼拝できることは本当にありがたいこと、嬉しいことだと感動しました。日本語で「ありがたい」の反対は「当たり前」です。今まで、日曜日にみんなで集まって礼拝することは「当たり前」だと思っていました。でも、決して「当たり前」ではありませんでした。それはとても「ありがたい」ことなのでした。新型コロナウイルスの苦しみの中で教えられたことでした。
もう少し考えてみました。私たちが「集まる」のでしょうか?それで本当に正しいのでしょうか。そうではありません。神様が「集めてくださる」のです。「私たちが集まる」のではなく、「神様が集めてくださる」のです。では、なぜ集めてくださるのでしょうか?理由は三つあります。
一つは、私たち人間は一人では生きていくことができないと言うことです。私たちは元々神様との交わり、人との交わりの中で生きる様に作られています。散り散りバラバラに孤立した状態で私たちは生きていくことはできないのです。誰かとつながって、ともに生きていく。そんな交わりに生きる命として私たち人間は元々作られています。そのことを神様はご存知なのです。
もう一つ、神様は、罪深い私たちが散り散りバラバラになって生き生きとした命を失ってしまうことを望んではおられないと言うことです。どんなに罪深く、どんなに神様を裏切っていても、神様は、私たちを見捨てることはありません。それほどまでに神様は私たちを愛しておられるのです。
三つ目は、聖書の中で、常に神様は人間よりも先に働いておられるからです。私たちが「集まった」と思うのは自由ですが、それは錯覚です。勘違いです。私たちが神様を知る前から神様は私たちを知っておられます。そして私たちが集まる前に、神様は私たちを呼んでくださっているのです。常に神様が私たちよりも先なのです。
今日の聖書、ミカ書もそのことを語っています。イスラエルの人々は、神様に背き、故郷を離れて、遠くへと散らされてしまいました。イスラエルの人々が、神様を裏切ったからです。しかし、神様はイスラエルの人々を決して見捨ててはおられませんでした。神様はイスラエルの人々を愛し、憐れんでくださいました。そして再び集めてくださることを約束してくださったのです。この約束がイスラエルの人々の希望でした。なぜなら、神様は決して約束を破らないからです。どんなに人間が約束を破ろうとも、神様は約束を破りません。この希望があったから、イスラエルの人々は苦しみに耐えてもう一度神様に帰っていくことができたのです。
今、私たちは、同じ場所で、一つになって礼拝することができています。でも、いつまた礼拝ができなくなるかもしれません。それから今私たちが同じ場所に集まっていますが、まだまだそれは十分ではありません。目に見える形では一つになって礼拝していますが、目に見えない心はまだまだ一つになっているとは言えません。神様の約束をしっかりと信じて、お互いが神様を礼拝できること、ここに集めていただいて、共にいることができることに感謝して、心から礼拝を捧げましょう。その時、神様が、私たちを目に見える形でも目に見えない形でも一つにしてくださることでしょう。そのようにして共に礼拝をまもり、クリスマスに向けて歩んでいきましょう。
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