誰がためにその喜びはあるか
2020年12月27日 降誕節第1主日(東方の学者たち)
マタイによる福音書 第2章1-12節
伝道師 𠮷川庸介
救い主の存在を真っ先に知らされるのは、当然その存在を信じている者だろうと考えることでしょう。ところが、救い主であるイエスの誕生をまず知らされた占星術の学者達は、救い主がやってくることを知らない異邦人でありました。しかし彼らは、その知らせを喜び、生まれたイエスのところへと贈り物を持っていこうとします。そんな彼らの次に、喜ばしい知らせについて伝えられたのは、救い主の存在を知っており、また信じていたヘロデ王とエルサレムの人々でした。しかし、彼らは喜びではなく不安を抱き、ヘロデ王などは、殺害を試みております。なぜ喜びと不安を抱く立場が、実際にはその逆となっているのかと考えていますと、ふと大学時代の論議を思い出しました。
まだ、私が大学に入学したての頃であったと思います。私は、世界に終わりがやってくる日に、キリストを信じない者は救われないのかという質問を投げかけたことがあります。その質問への答えは、それは、カルト的な考え方に過ぎない、神は全てを愛してくださっている、というものでした。しかし私は、ヨハネ福音書には「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」とあるが、「全て」は信じる人だけであるのか、選別された状態の人間がいるように思え、胸につっかえを覚えたのです。
これに併せて、現代の私たちのことを考えてみたいと思います。私たちは救い主の存在を信じ、いつの日かやって来る最後の日に神の国へと行くことができると口では信じていると言います。しかし、もしその最後の日が現実として間近に迫った時、それは私たちが今、営んでいる生活、これまで積み重ねてきた努力や人間関係、それら全て捨てることとなったとしても喜びと共に受け入れることができるのでありましょうか。どこかで、現状や積み上げてきたものについて惜しいと思う気持ちが、救い主を待ち望む純粋な思いの中に、影を落とすことはないでしょうか。また、救い主の誕生を心から喜べず、恐れさえを抱いた人は、最後の最後に反旗を翻すような者であったことでしょう。その時思ったのであります。実際に、待ち望むと言うことは簡単であるが、その本心は偽りであり、自分はヘロデ王であり、エルサレムの人々に過ぎないと思たのです。
そう考えた時に、占星術の学者はまったく違う世界で生きており、その世界の中で完結し、彼らなりの信じるものがあったはずです。つまり、元々は占星術の学者は、救い主を知る機会など一切なかったということに再度気がつきました。そのような元々は何も知らなかった人々に対して、真っ先に伝えられたことは、救いとは誰に対してでも当然与えられるものであるということ、そして誰一人として救いの手のひらからこぼれ落ちないようにと神が人を愛そうとする覚悟があらわれているのではないかと思ったのです。
考えてみれば私たちは誰しもが救い主の存在など知らない、占星術の学者達のようなものでした。しかしある時、救い主の存在を確かに信じ、喜ぶことを知ったのです。いったい誰のために、イエスはこの世に来られたのか、それは限られた人のためではなく、信じる者、信じない者に限らず全ての者にその手を差し伸べるためでありました。その事実があることを思い祈りつつ、神の愛を確認していきたいと思うのであります。
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