あなたは慰められる
2020年1月3日 降誕節第2主日(エジプト逃避)
エレミヤ書第31章15-17節
マタイによる福音書第2章13-23節
牧師 木谷 誠
与えられたマタイによる福音書のイエス・キリストの誕生物語はとても悲しい事件で締め括られます。東方の占星術師たちは、天使のお告げを受けて、ヘロデのもとには帰りませんでした。これを知ったヘロデは激怒し、ベツレヘム周辺の二歳以下の子どもを皆殺にしてしまいました。これがヘロデ王による幼児虐殺です。この物語を読むたびに私はとても悲しくやりきれない気持ちになります。イエス・キリストは世の罪人の身代わりとして命を捧げ、犠牲の子羊となられました。そのイエス・キリストの身代わりとなって犠牲になったベツレヘム周辺の子どもたちがいるのです。正直、「この物語がなかったら」と思ったことが何度もあります。マタイはこの物語を、それを読むものが心を痛めると知りつつ、書き残しました。その意味を確かめたいと思います。
その意味の一つは、旧約聖書の預言の成就です。ヘロデの陰謀に代表される人間の欲望(権力欲)は膨張し、尊い命を奪い、大きな悲劇をもたらしてしまうということです。人間の罪の恐ろしさをこの物語は指摘しています。
二つ目は、人間の企て、陰謀は、神の救いのご計画を止めることはできないと言うことです。ヘロデの陰謀は、イエス・キリストを殺害して、自分の権力を守ろうという計画でした。たくさんの兵隊、武器、大きな屋敷、ヘロデの権力は目に見えます。とても強大です。神の救いのご計画は目に見えません。目に見えるしるしは無力な生まれたばかりの赤ん坊と貧しいヨセフとマリアです。人の目から見たら、ヘロデの方が強く見えます。しかし、神の救いのご計画はヘロデの企てを超えて力強く働くのです。私たちは世の動きに惑わされないで、神の救いのご計画への信頼を新たにしましょう。
しかし、割り切れない思いは残ります。なぜ罪もない子どもたちが死ななければならないのか、神はなぜそれを放置しておられるのか?この疑問は歴史の中で数多く起こって来ました。今も起こっています。なぜ、新型コロナウイルスが蔓延するのか?人間の奢り昂り、罪の結果?確かにそう言う部分もあるでしょう。でもそのためにこれほど多くの人たちが犠牲にならなければならないのか?これはヘロデの野望のため、罪のない子供たちがなぜ殺されなければならなかったのかと言う問いと本質は同じです。この問いは歴史の中で何度も繰り返されて来た歴史の謎、不条理です。
残念ながらこの問いへの答えは出せません。人生には、歴史には、人間に答えの出せない問いが存在することを私たちは認めなければなりません。それに答えを出せると思うことは人間の思い上がりです。しかし、希望はあります。人間が希望を見出せないところでも神は希望をもたらしてくださいます。その鍵はエレミヤ書第31章16-17節の言葉です。我が子を失った母、最も痛ましい姿です。神はその母に対して、泣き止みなさい、涙を拭なさい、あなたの苦しみは報いられる、あなたの未来には希望があると告げます。人生の不条理に私たちは打ちのめされます。無力です。しかし、これで終わりではありません。希望があります。その希望として、イエス・キリストがエジプトから帰って来ます。そして神の愛を伝え、十字架にかかり、復活されます。そして私たちの罪をゆるし、神との永遠の愛の交わりを実現されます。世の終わりに再び来られ、死者は復活し、新しい命をいただいて、主の前に永遠に共にいることができます。その時には、かつてヘロデによって命を奪われた幼子たちも新しい命をいただいて、母たちと再び会うことでしょう。その時に、母たちの苦しみは報いられます。歴史には、説明のつけられない悲しみが存在します。不条理です。罪の結果と言うには痛ましすぎて、希望を見出すことができません。しかし、そこに神は希望をもたらしてくださいます。それだけではありません。神はそのような不条理に打ちのめされる者に寄り添い、悲しみを共にする者としてイエス・キリストをこの世に送られたのです。なぜこんなことが起こるのか?その問いの前に立ち尽くし、呆然とする者に寄り添い、苦しみと悲しみを共にする神としてイエス・キリストは来てくださいました。インマヌエル、我々と共にいてくださる神は、イエス・キリストの姿で来られました。そして今度こそかつて自分の身代わりになった幼子たちを含め、全ての人たちに永遠の命をもたらすための十字架にかかるためにイエス・キリストは来られたのです。イエス・キリストご自身の身代わりになった幼子たちに永遠の命をもたらすために、全ての不条理に打ちのめされる者たちに慰めと希望をもたらすために、「あなたは慰められる」とのメッセージを携えて、イエス・キリストは来られました。そしてもう一度、世の終わりにイエス・キリストは来られます。その時には、全ての不条理の問いは、圧倒的な喜びの前に消えてしまいます。マタイが、美しいクリスマス物語の最後を、なんとも後味の悪い、切ない物語で締めくくる意味はそこにあるのではないでしょうか。そしてこの物語があるからこそ、私たちは新しい年にも慰めと希望を期待して歩んでいくことができるのです。
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