1月10日 説教要旨

神の覚悟、神の本気

2021年1月10日
降誕節第3主日(イエスの洗礼)
マタイによる福音書第3章13-17節
牧師 木谷 誠

 洗礼者ヨハネのところに洗礼を受けに来たイエスの眼差しはどうであったのでしょうか。ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼です。罪を犯した者が自分を清めるために行うものでした。イエスが悔い改めの洗礼を受けるということは、イエスが罪人の一人になったということです。洗礼を受けに来たイエスを見て、ヨハネはそれを思いとどまらせようとしました。イエスが神の子であることをヨハネはひと目見てわかったのでしょう。「いと高き神の子が罪人として洗礼を受けるのはおかしい。自分こそイエスから洗礼を受けるべきだ。」と。そう考えるのは当然です。ではなぜ、イエスは洗礼を受けたのでしょうか?それはイエスが罪人とつながろうと決心したからです。そして罪人に寄り添い、悩み苦しみを共にし、神の愛を伝えようと決心したからです。さらにその罪人が神にゆるされ、神の子とされるために、罪人を罪から救うために罪人にかわって十字架で命を捧げ、罪の贖いをするためです。イエスはそれほどの覚悟でヨハネの洗礼を受けに来たのです。それほどイエスは本気だったのです。イエスは本当に人間になられたのです。イエスは、食べなければお腹が空く、打たれれば痛い、切れば血が出る生身の人間の姿になられたのです。それは罪の故に様々な悩み苦しみを背負って生きる人間、その人間の生々しい現実に本気で関わる覚悟があったからです。ヨハネのところに洗礼を受けに来たイエスの眼差しには、そんな覚悟、本気が表されていたのではないでしょうか。
 イエスは言いました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」イエスが洗礼を受けることは神のご計画であるからそれに従う。そのイエスの神のご計画に従う覚悟と本気がここにも現れています。この言葉を聞いたヨハネは嬉しかったと思います。イエスが「我々」と言われたからです。いと高き神の子が洗礼者ヨハネを、共に神の救いのご計画を担う仲間と認めた。それがこの「我々」という言葉に表されています。
 そのようにして罪人の仲間となる決断をされたイエスに聖霊が降ります。イエスの働き、その力の源は人間の力ではなく、聖霊です。目に見えない神の力なのです。神の力は、自分のために用いるのではなく、自分を捨てて、神に従う決断をしたイエスに与えられたのです。そしてそのような決断を神はよしとされました。それが「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との天の父なる神からの言葉です。神がイエスの覚悟と本気をお認めになったということです。
 イエスの洗礼の物語には、いと高き神の子が、これほどまでの覚悟と本気を持って、イエス・キリストの姿で来られたのだということが示されています。イエス・キリストに示された神の愛にはこれほどまでに本気の覚悟がある。まさしく命をかけてこの世界を、私たちを愛し、愛し抜くためにイエス・キリストは来られたのです。私たちを愛する神は、これほどまでの本気と覚悟を持っておられるのです。私たちはこれほどまでに深く愛されているのです。この聖書を読んで、このような神の覚悟と本気を示される時、自分が問われます。自分がどれだけ、本気で覚悟を持って自分の現場で生きているだろうか、出会う人と関わっているだろうかと。皆様はいかがでしょうか?私は、自分の覚悟と本気がどれほどみすぼらしく粗末であるかを思い知らされ、恥ずかしくなりました。逆にそのような私をこれほどまでに本気で覚悟を持って愛してくださるイエス・キリストへの感謝と尊敬がますます大きくなりました。私たち、この愛にお応えするにはあまりに粗末な罪深い者ですが、それでも神様は私たちが神様の愛に感謝し、応えることを喜ばれます。そしてイエスに降してくださった聖霊を私たちにもくださいます。その時、私たちは、それぞれ与えられた場でそれぞれの個性を生かして神様にお仕えすることができるようになるのです。
 この愛に感謝し、私たちなりに精一杯応えましょう。たとえそれが、立派なかっこいい覚悟の姿でなくてよいのです。おっかなびっくり、及び腰でも良いのです。そのとき、イエス・キリストに注がれた聖霊が私たちにも与えられることでしょう。そのとき、私たちも神様から委ねられた務めを果たす力を与えられて、神様のご栄光を証する者としてこの年も歩んでいけることでしょう。

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