天の国はすぐそこに
2021年1月24日 降誕節第5主日(宣教の開始)
イザヤ書 第8章23節b-9章3節
マタイによる福音書 第4章12-17節
伝道師 𠮷川 庸介
「悔い改めよ、天の国は近づいた」は、あまりにも有名な言葉でありますが、いざ説明せよと言われ色々と考え始めると、さまざまな難しい問いが生じます。
この「悔い改めよ」と言う言葉を投げかけられた人々とは、かつて大国に征服され、アイデンティティーを破壊された人々であります。イザヤ書に辱めを受けたとありますが、上記の苦しみを受けることを指し、この上ない辱めだと言っているのです。彼らはその屈辱から数百年の時を経て、再びユダヤの同胞として迎え入れられましたが、かつて征服された場所に住んでいたという理由だけで、まるで見知らぬモノのように扱われたのであります。暗闇、死の陰との言葉でありますが、これは人が住むような場所ではない-すなわちそこに住む人は人ではない-という侮蔑の意味をこめて呼ばれているのです。
このようなことを、ただ遠い昔の出来事というわけにはいきません。身近な例を挙げるなら、例を見ない新型感染症について言えるでしょう。好き好んでこの状況に陥ったわけでもないのに、その地域に住んでいたと言うだけで監視をされる日々を送ることとなり、一度感染すれば不快感を持たれ、満足に日常を送れない人々の姿を見るからです。好き好んでなったわけでないにもかかわらず、気がつけば苦境に陥ることを、神が与えた試練なのかと、かえって無気力と絶望を感じる彼らと、今を生きる私たちとは重なるのです。
そのような、一切の希望も慰めも感じられぬ人々に光が差し込んだとあります。この一言を聞き、あぁ、ようやく救いがもたらされたのだと思いそうですが、実際のところ何が言いたいのかと思われたに違いありません。そもそも、悔い改めろとありますが、既に苦しみを受けた者が、さらに反省が足りないとか、至らなかったと言わなくてはならないのでしょうか。
今一度悔い改めよとの言葉を見てみます。実はこの言葉のもっとも根幹にあるのは、「お前の心のうちを変えなさい」との意味です。ただ己の生き方が至らないのだと考えたりするだけであれば、私たちはなんとでもできてしまうのです。そのようなものは、自分が持つ肩書きや、自分が譲ることができないプライドなどを前にした時、簡単に放棄されてしまうものにすぎないのです。
悔い改めよとは、お前たちは、自分を取るに足りないと言われそのように思っているかもしれないが、それは人が決めたものを基準としているのであり、そうではなく神である自分を見つめるように心を変えよ、と言っているのです。この言葉は時を越え、私たちに向かっても投げかけられているのです。この心を、私たち全員が持つことを求め、イエスは宣教のはじまりの言葉として発されたのであります。
ルカによる福音書でイエスは「神の国はあなたがたの間にある」と語りますが、この言葉が叶った時、肩書きだとかそんなものは一切が捨てられ、ただ喜びを知った私たちが共に肩を並べ、救いを与えてくださったイエスの弟子として、ただその光り輝く姿を追いかける私たちの姿があるのではないでしょうか。そしてその時にすぐそこ、すなわち私たちの間にある天の国へと入ることができるのです。
悔い改めよ、天の国は近づいた。できないと思った時、暗闇の中を彷徨うことになった時、それでもなお、目の前で光を放ち、じっとその場で待ち続けておられる方がおられます。そのお方、すなわちイエスの一片に触れ、天の国へと招き入れられるその喜びを、ともに分かち合い、生きてまいりたいと思います。
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