2月7日 説教要旨

癒しへの招き

2021年2月7日 降誕節第7主日(いやすキリスト)
マタイによる福音書 第15章29-31節
牧師 木谷 誠

 聖書には癒しの物語が出てきます。ここでの癒しは、気分が良くなったとか、疲れが取れたとかいうものではなく、病気が治ったとか、目の見えない人が見えるようになったとか、体の不自由な人の体が動くようになったという出来事です。これらは普通では非常に信じにくい出来事です。聖書に出てくる癒しの物語は、読む人にとって、大きな障害になることがあります。私たちはこのような物語をどう受け止めたら良いのでしょうか?教会の中にはいろいろな立場があります。私は、素朴にそのまま信じます。神様はこの時にはそのような不思議な出来事が必要とお考えになった。だからこのような癒しの奇跡が起きたのだと信じます。なぜかというと、教会に通い、聖書の言葉を聴いて、信仰生活を続けているうちにたくさんの神様のお恵みをいただきました。何度も助けていただきました。素晴らしい出会いをいただきました。そのようにたくさんの神様のお恵みをいただいているうちに聖書に書いてあることはそのまま信じたら良いと思うようになりました。今では同じことは起こりません。しかし、今の時代には、今の時代にふさわしい形で神様は私たちにお恵みをくださり、素晴らしい癒しの出来事を起こしてくださっています。
 この物語の始まり、イエスは山におられました。イエスは祈っていたのです。祈りは神様とお話しすること、神様に聴くことです。イエスはそのようにして神様と交わっていました。そこにイエスの癒しの力がありました。イエスは山で祈った後、多くの痛み、苦しみを抱える人々と出会いました。イエスは祈る中で、そのような人々に神様の愛を伝える準備をしておられたのです。神様は日々の生活の中で苦しみ、痛みを抱えて生きている人を愛し、寄り添い、慰め、励まし、癒してくださる。そのような神様の愛を伝えるために、癒された人々が喜びに満たされて神様を賛美することができようになるためにイエスは多くの人々を癒されたのです。
 今もイエスは痛み苦しむ人と共におられます。そして神様の愛を注いでくださいます。もちろん私たちにもです。聖書の言葉に聞き、祈る中で、私たちはその恵みに気づくことができます。そしてイエスに癒された者として、この恵を分かち合う者として、痛み苦しむ人と出会い、イエスの癒しへと招くことが求められます。この物語を読むたびに「わたしは誰かと出会っているだろうか?」、と反省させられます。今治の町にも、痛み苦しむ人、イエスの癒しを必要としている人がたくさんおられるはずなのに、本当に真剣に出会っているだろうか?何が足りないのか?それは祈りが足りないから、大切な出会いに気づくことができないのだと思います。
 わたしたちが、悩み苦しむ人、痛みを抱える人を訪ね、共に祈る時、そこに神様は素晴らしい出来事を起こしてくださいます。イエスの時代のようにたちまち癒されるということはないかも知れませんが、慰め励まされ、新しい歩みへと導かれます。そして喜びに満たされて、共に神様を賛美することができます。そのようにして癒され、その癒しの喜びを分かち合う者として今治の街に歩み出しましょう。

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