ブレてもいいから歩き続けて
2021年2月14日 降誕節第8主日(奇跡を行うキリスト)
マタイによる福音書 第14章22-33節
牧師 木谷 誠
五千人(女性と子どもを別にして)に食事を与えた後、イエスは弟子たちを強いて先に行かせました。なぜでしょうか?祈るためです。なぜイエスは祈ったのでしょうか?祈りは神様と交わることです。神様に語りかけ、神様に聞くことです。イエスにとってそのような祈りはまさしく命の養いでした。イエスは神様との交わりの中で新しい力をいただいていたのです。私たちも祈ることによって神様と交わることができます。これもイエスのおかげです。祈りは命の養い、慰め、力なのです。
そのようにしてイエスが祈っている間、弟子たちは湖の向こう岸に渡ろうとしていました。しかし、風が逆風で船が進まず、波が荒れて、困っていました。そこにイエスが水の上を歩いてやってきたのです。弟子たちは驚き、幽霊かと思って恐れました。情けない話です。でも人間の弱さはこんなものなのかもしれません。弟子たちは疲れていたことでしょう。弟子たちは風と波に悩まされ、心乱れていたことでしょう。そんな疲れ切って乱れた心では、イエスのことを幽霊と思ってしまうのです。
もっとも頼りになる方、助けになる方を見間違えてしまい、拒んでしまうのです。いわば心がブレた状態、それも相当ひどい「ブレブレ」の状態です。イエスとは正反対です。イエスは疲れ切った中でも祈りを忘れませんでした。そこから新しい力をいただいていました。弟子たちは祈りを忘れ、目の前の嵐の現実に心乱れ、神様を見失ってしまっていたのです。そのような弟子たちに対してイエスは「安心しなさい。私だ。」と優しく呼びかけてくださいます。祈りを忘れ、神様を見失い、一番頼りになる人を拒んでしまう。そのような愚かで弱くブレてしまう弟子たち。弟子たちの姿は私たちにも重なるのではないでしょうか?イエスはそのような弟子たちの、私たちの弱さ、愚かさ、「ブレブレ」の状態をご存知です。そしてイエスは私たちを憐んでくださり、温かい愛を注いでくださいます。イエスは水の上を歩いてでも助けに来てくださるのです。ペトロは、イエスの助けを喜び、イエスの声に従って水の上を歩きました。しかし、ペトロは途中で強い風に心乱され、溺れかけてしまいました。ペトロもブレてしまいました。一番弟子のペトロでさえも他の弟子や私たちと大差ありません。イエスはそれら全てをご存知で、寄り添い、しっかりと手を伸ばして捕まえてくださいます。このイエスこそ、神の子、私たちの導き手「真の羊飼い」なのです。
私たちにできること、必要な身支度は祈りです。それからもう一つあります。私たちはここでペトロのことを考えてみましょう。この時、ペテロは途中まではイエスをしっかりとみていました。でも強い風や高い波のためにペテロは心が乱れて、イエスが見えなくなりました。するとペトロはたちまち沈みそうになりました。これが人間の罪です。私たちの弱さです。罪は「的外れ」ということもできます。私たちの心がイエスという的をしっかりと捉えていれば大丈夫、沈みません。でも強い風や高い波が気になって、そっちに心が向いてしまうと心がイエスというマトから外れてしまいます。すると私たちは沈んでしまうのです。このような罪と弱さを私たちは持っています。大切なことはそんな沈みそうになっている時にイエスがそばにいてくださることに気づくことです。そしてイエスの手を握ることです。それが信仰です。私たちの人生にも様々な事件があります。その事件のために私たちは、心乱れ、恐れ慄きます。そしてイエスを忘れてしまい、ブレてしまいます。そんな時、祈りましょう。神様を呼びましょう。イエスを呼びましょう。「主よ、助けてください」と叫びましょう。その時、私たちはイエスがそばにいて手を伸ばして私たちを捕まえてくださっていることに気づくことができるのです。そこに私たちに手を伸ばし、しっかりと掴んでくださる「本当の神の子」イエスがおられるのです。ブレても良いから、もういちど祈りましょう。イエスの方を向いて、イエスに心を向けて、イエスに呼びかけて、歩き続けましょう。イエスはあなたに寄り添い、しっかりと捕まえてくださっているのです。イエスはあなたと共におられます。
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