2月21日 説教要旨

誘惑の上に立ちなさい

2021年2月21日 受難節第1主日 (荒野の誘惑)
マタイによる福音書 第4章1-11節
伝道師 𠮷川庸介

 イエスが荒野であらゆる誘惑を退けたこの物語は、イエスの神へ従う姿や神との関係のあるべき姿を教えている、といった言葉を耳にします。誘惑の言葉をかける悪魔に対し、イエスが返す「神のみ言葉によって生きる」や「神を試すな」といった言葉が重要ということでしょう。
 しかし、いつも私たちが耳を傾けてしまうのは、悪魔がイエスにかけた言葉であり、それに感情を左右されることが多くはないでしょうか。40日間、空腹を耐えたイエスにかけられた、石をパンに変えてみせよ、飛び降りて天使に支えられよとの言葉は、神から最初に与えられた力を使って自分を満たしてみせよ、という意味を持っています。その行き着くところは、神の言葉を信じることは当たり前だと口にしても、心の底から信じきれておらず、むしろ欲望を肯定するかのような悪魔の誘惑を受ければ、口にした言葉が簡単に崩れ去るという事実ではないでしょうか。
 神はイエスを聖霊の力によって悪魔からの誘惑に晒されるために荒野へと送り出しました。荒野でのイエスは腹をすかせたとあり、私たちと同じく食料を必要とする肉体を持っていることが証されます。私たちに救いを、愛をもたらすはずの神の子なるお方が、私たち人間と同じ肉体を持っていたという事実は、よく耳にする私たちと共に苦しみを負う覚悟を持って、私たちのところに来てくださった、といった言葉を思い浮かべます。しかし、本当に私たちと同じ肉体を持ち、欲望を持っていたのならば、どうして肉体と同じく持ち得ていた神の力を使うことで、肉体を苦しみから解放しなかったのか、という疑問が残ります。
 悪魔は「神の子ならば」という言葉を2度繰り返しております。これは、十字架につけられ、死を待つだけであったイエスに「神の子ならば自分を救ってみよ」と罵った時にかけられた言葉と同じです。これを読むと、私たちと同じであれば、なぜ私たちであれば当たり前のように使うであろう苦しみから解放される力を使わないかとも思えます。しかし、最後にイエスは全ての誘惑を断ち切り、主に従うことのみが最も大切であると語られました。それをイエスだからできたのであると言われるやもしれません。あるいは、神の子であるのだから私たちとは違う強さを持っていたのだ、最後には神の子でありながらイエスは十字架にかけられ、死を選ぶことによって、私たちの罪を全て負ってくださったのだ、といった言葉が付け足されるやもしれません。
 しかしこの言葉は、「自分は神によって救われるのだから弱くてよい」との想いに代わり、最後には「自分の欲望に従う、思うがままの自分でよい」といった言葉となり、悪魔の誘惑となり私たちへと語りかけられます。
 そんなときに「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」との言葉を思い返したいものです。イエスは、私たちと同じ肉体、欲求を持っていたにもかかわらず、その苦しみを神の力を用いて乗り越えることを選ばず、誘惑と闘われて勝利されました。もし、人の子として肉体を持っていたイエスが、神の力を使うことで苦しみを乗り切ったのならば、神の力を持たない罪人は、どう足掻いても苦しみを追い続けなければならないという証明にしかなりません。だからこそ、神の力を使わずして、耐え切られたのであります。
 そこにはあまりにも厳しい態度を見てしまうかもしれません。しかし、その裏にあるのは、人は必ずや誘惑を乗り越えることができるはずだと、人をどこまでも信じて愛してくださる姿なのです。私たちが誘惑に弱いことを、神に従いきれないことをご存知であり、赦しをあたえる証として、十字架に自らの体を捧げてくださいました。けれども、その事実と同じくらい、私たちに同じ肉体をもって苦しんだ私と同じことをなすよう努めなさいと、信頼の眼差しを向けてくださるイエスを、私たちは確かに見ることでしょう。いついかなる時も、この事実を見据えたいものです。

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