自分を捨て、自分の十字架を背負う
2021年3月7日 受難節第3主日(受難の予告)
マタイによる福音書 第16章21-28節
牧師 木谷 誠
本日与えられましたマタイによる福音書を初めて読んだ時、その前のマタイによる福音書第16章13節から20節までとの大きな落差に驚きました。マタイによる福音書第16章13節から20節において、ペトロはイエスのことを「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白します。これに対してイエスは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われ、最大級の褒め言葉を与えました。その後が本日の聖書です。そこでイエスがご自分の受難を予告するとペトロはイエスに向かって「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言って、押し止めようとしました。するとイエスはペトロに「サタンよ、引き下がれ」と言われたのです。少し前までは、ペトロのことを「教会の岩、基礎」と呼んでいたのに、今度はいきなり「サタン」。この落差はいったいどういうことなのでしょうか?それは人間は、自分の考え方や意志によって、教会の基礎にもなれるし、サタンすなわち悪魔にもなれるということです。人間はとても大きな選択の幅を持っています。そしてその選択によって、人間は天使にも悪魔にもなりうるのです。
では私たちはどうしたら良いのか?イエスは言われます。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」と。「自分を捨て」とはどういうことでしょうか?イエスは、私たちに全財産、命までも捨てよというのでしょうか?それはとても難しい、不可能なことのようにも思われます。誰もイエスについていけなくなります。ではどうしたら?そのヒントは直前のペトロに向けたイエスの言葉にあります。それは「神のことを思わず、人間のことを思っている。」という言葉です。「自分を捨てる」とは「神のことを思うこと」です。「自分を捨てない」とは「神のことを思わず、人間のことを思うこと」なのです。常に神の御心を願い求めること、それが大切なこと、全てはそこから始まります。そして必要なものは全て備えられます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイによる福音書第6章33節)にある通りです。
次に「自分の十字架を背負う」とはどういうことでしょうか?それはイエスに従い、イエスに倣って「神のことを思い」つつ歩む中で与えられる課題を誠実に担うことです。誰もイエスの十字架を背負うことはできません。他の人の十字架を背負うこともできません。それぞれがイエスに従い、イエスに倣う中で担う課題は違います。自分の十字架で良いのです。自分の十字架を背負って歩む時、そのそばにイエスがおられる体験をすることができるのです。
以前、私は大失敗をしました。とてもとても落ち込みました。悪いのは私なのに、見苦しい自己弁護、不平、不満、反論など、汚いものが心の中からわいてきて祈れなくなりました。その時にイエスの「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」という言葉を聞いたのです。まさしく今の自分にぴったりでした。そしてイエスの言葉を自分に繰り返し言い聞かせていると不思議なことに心が鎮まり、平安が与えられました。本当に感謝でした。
受難節の時、自分を捨てて(人間のことではなく、神のことを思い)イエスに従うことの意味を確かめつつ歩んで参りたいと思います。その歩みの中でイエスに会えることでしょう。
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