神の声を心に留める
2021年3月14日 受難節第4主日 (主の変容)
ペトロの手紙二 第1章16-19節
マタイによる福音書 第17章1-8節
牧師 木谷 誠
イエスという方がどれほどすごい方なのか?私たちはその全てを知ることはできません。しかし、イエスのすごさ、神の子としての栄光の一部が示された出来事がありました。それが今日の聖書の物語です。イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登りました。するとイエスの姿が光り輝き、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合い始めたというのです。モーセは、旧約聖書の一番大切な出来事である出エジプトのリーダであり、律法を伝えた人です。エリヤは旧約聖書の中で預言者の代表的な人物です。モーセとエリヤを合わせると「律法と預言者」となり、旧約聖書全体を表します。イエスはモーセ、エリヤが旧約聖書の時代に成し遂げた神の救いの御業を引き継ぎ、完成させる神の子、救い主です。その栄光の輝きが地上で一度だけ示されました。それがこの物語なのです。
この出来事に接したペトロの言葉はどういう意味なのでしょうか?ペトロはどんな気持ちだったのでしょうか?なんとも言えない違和感を感じます。私はよく分からなくて悩みました。そして今回私はふとあることを思い出しました。それは演奏会やショーを見に行った時のことでした。なんて素晴らしいんだろう、なんて素敵な人たちなんだろう。また見たい、いつまでも見ていたい。私はそんな気持ちになりました。ペトロや弟子たちももしかしたら同じだったのではないでしょうか。おそらくペトロも、この光り輝く感動的な瞬間をまた何度も見たかったのでしょう。だからイエスとモーセとエリヤのために仮小屋を建てようと言ったのです。
しかし、その願いは叶えられませんでした。光り輝く雲がイエスとモーセとエリヤを覆い、ただ「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」という声だけが聞こえました。そして神はイエスだけを残されました。神様の救いのご計画の中でモーセとエリヤはそれぞれの役割を果たしました。これからイエスが神様から与えられた役割を果たす番です。そのイエスの役割は、私たちの罪の赦しと神の子としての永遠の祝福を実現するために十字架にかかることです。神はイエスが残しました。それで十分なのです。栄光の神の子がその栄光の座から降りてきて、人の姿となり、私たちの救いのために十字架にかかることを決断なされた。この物語にはそのような重要な転機という意味があるのです。
ところで、1990年くらいからアメリカの若者、スポーツ選手たちの間で、「WWJD」という文字の入ったリストバンドが流行りました。これは「What would Jesus do?」の略で「イエスならどうする」という意味です。このリストバンドは、自分の普段の生活のいろいろな場面で「イエスならどうするだろう?」と考えながら過ごすことを意味しています。このリストバンドは、自分の言葉、自分の行い、自分の思いがイエスに倣うものになっているだろうか、イエスに喜ばれるだろうか常に問いながら過ごしていくために作られたものです。「WWJD」はただのファッション、おしゃれではなく、自分の生き方をイエスに喜ばれるようにしたいという信仰の決意が表されています。
「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」。受難節、私たちも思いを新たに「イエスならどうするだろう」という問いを常に持ち、生活の中の思いと言葉と行いを整え、「神の声を心に留めて」歩んで参りましょう。
この記事へのコメント