3月21日 説教要旨

あえて低みに立ってみよう

2021年3月21日 受難節第5主日 (十字架の変容)
マタイによる福音書 第20章20-28節
伝道師 𠮷川 庸介
 
 私たちが、普段の生活の中で報われたとか、満足だと思う時は、自分のやったことについて成果が出た時でありましょう。そこにあるのは、私たちがごく当たり前のように心に抱く、喜びの感情に違いありません。ただそこに、これであの人よりも評価されるとか、誰かよりもうまくやりたい、権力を持ってやりたいと、そんな感情を思わず抱いてしまうことはないでしょうか。
 イエスが自らの死と復活を告げ知らせた後、ヤコブとヨハネの母親がイエスのもとへ来て、二人の息子の天の国での地位を願ったとあります。願いを聞き、「私の杯が飲めるか」と返すイエスに対し、二人はもちろんですと返します。ここでの杯を飲めるかという質問は、十字架に至るという最も重い苦しみを分かち合えるか、またその後の神の国を伝える旅での困難を受け入れるのか、との意味を持ちます。イエスの質問に、もちろんと返した言葉は、なんら曇りもない美しいものであります。彼らは十字架にかけられるイエスを前に逃げ出しはしたものの、最後には殉教という苦難を受け止めたことを思うならば、彼らのイエスを信じる心は心底本物であったことでしょう。
 しかし、この思いには一つの曇った思いが入り込んでいます。それが母親の口を通して語られた、天へと上った後、神の右と左に座ることができるか、との問いなのです。神の右と左、とは神の国で神の次に地位が高い人が座る場所です。つまり二人は自分たちの働きに応じて、神の国での地位が与えられることを望んでいるのです。
 彼らの願いを聞き、他の十人は腹をたてた、とありますが、別にその理由を考えることは難しいことではありません。彼らの中にも、神の国と言う新しい王国で、ある程度の地位につきたいとの思いがあったと言うことです。すでに天の国で誰が偉いか、といった議論をしていたくらいですから、そんな思いはないと言い訳しようとなど、できるはずもありません。イエスが言われたことの行く末を見てみたい、自分はこのお方に従うと口では言いながら、お互いが牽制しあっているというのは、なんと滑稽なことでしょうか。だからこそ、イエスは静かに、しかし、しっかりと「それを決めるのは私ではなく父なる神のみである」と、自分はあなたたちと同じ立場にあり、仕える者であると教えられたのです。
 イエスは、神の子でありました。神の子なら、全ての人の先頭に立って、指揮を取るのではと思えます。しかし、そんな勝手なイメージとは正反対に、「偉くなりたい者は仕える者に、頭となりたい人は僕となりなさい」と語ります。この考えは何か他の人よりも何かを成し遂げたから、それに応じて何かを手に入れるわけではないこと、全ては平等に与えられることを再度教えているのです。
 人の子であるイエスも、他の人たちと同じ立場にも立つ者であったかもしれません。しかし、イエスは自分の命を身代金として払われることを一切惜しまず、他の人のために自分を最も低い身分に落とされました。それは、みなが平等である中でも、私はあえて他の人を支える最も低い場所に立とうとするゆえではなかったのでしょうか。
 その事実を知っているのならば、自分の立つ場所を上へ、上へと持ち上げようとする想いに従うのではなく、あえてイエスと同じ低いところに身を置いてみようではありませんか。きっと、その場所から見た世界は、何物にも変え難い美しさを放っていることでしょう。その本当の美しさは、全ての人が、低みに立ち、他の人を思いやって完成するはずです。そのためにも、まずは自らの身を、イエスが望んで自分を置かれた立場に置き、全ての人を支えようとする者でありたいと思うのです。

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