2021年05月05日

4月25日 説教要旨

決して死ぬことはない

2021年4月25日 復活節第4主日(イエスは復活また命)
ヨハネによる福音書第11章17-27節
伝道師 𠮷川 庸介

 イエスが「愛していた」ほどに大切に思っていたラザロは、イエスが会いに来た時には、すでに死んで四日が過ぎていたとあります。直後ならあるいは、ラザロの死が間違いであったと言えたかもしれませんが、四日は、その希望を打ち砕くには十分な期間でありました。イエスを迎えに来た時に、マルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったことでしょう」と声をかけますが、なぜその前に来てくださらなかったとの思いが聞こえてきそうであります。とはいえ、この言葉にはあなたがいれば兄弟ラザロは死ぬことはなかったはずであるというイエスへの信頼を見る気もします。
 ただ、マルタがこの後に語る、「あなたが神にお願いしたことは叶えられると承知している」「終わりの日に復活することを存じています」との言葉にある、「承知」と「存じている」は、まだ知識として知っている状態を指しています。つまり、マルタはイエスの言葉を知識として知っているだけであり、イエスの「あなたの兄弟(ラザロ)は復活する」との言葉を受けても、漠然とまだあるかも分からない未来の希望としてしか、そうだったらいいなとしか、受け入れることができていないのです。
 もちろん、親しい者との別れ、すなわちその死を目の前にして、どのように希望を得るのかを問われれば、また再会することができる、という言葉に他ならないわけです。しかし、それが一時の慰めに過ぎないのなら、何の意味があるでしょうか。
 私たち人間は、哲学者のハイデガーが、「人は有限であり、死へと向かう存在」と語っているよう、寿命を持っている存在であります。それを踏まえて、死ぬことはないという言葉を、信仰共同体の中で皆が覚えて引き継ぐのだから、死ぬことはないのだと語る人もいます。しかし、語り継ぐものがいなくなり、覚えているものがいなくなったらどうでありましょうか。それを生きていた証とは、おそらく言えないでしょう。ならばイエスの言うところの決して死なないとは、何を言い表すのでしょうか。
 イエスは、人というものは無限の中にその身を置いており、有限という枠の中に閉じ込められるのではないことを、そして自分を信じることでそれを確信することになると教えているのです。すなわち、肉体の体の死によって、自分の存在そのものがその時に終わり、死ぬというわけではない、本来あるべき終止符はその先にあるということを教えているのです。つまり、死のさらに向こうに続く道があり、死というものは復活という希望を与えるための通過点にしか過ぎない、というのです。
 まさに言葉遊びのようなものです。死後のことなど、誰が分かろうか、と言われそうです。しかし、事実としてラザロは死から復活へと導かれましたし、イエスご自身が死んだ後に蘇りあらゆる人の前に姿を現し、多くの喜びを与えられました。そしてパウロは「キリストの復活がなければ宣教も信仰も無駄である」とコリントの信徒への手紙で語りますように、まさに復活とはそのまま受け入れるに足りうることなのです。
 確かに私たちは生きている以上、ハイデガーのいうところの有限の存在であり、別れは経験しなければならないわけであります。ですが、その通らなくてはいけない死を、イエスは復活また命、イエスを信じてそれを受け入れることにより希望へと変わることをイエスは教えるのであります。死という別れが、最後には喜ばしいものへと変わることを信じ、そして来たり給うその日を悲しみに背を丸めるのではなく、確信と喜びで受け入れて歩む者でありたいと思います。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 12:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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