5月16日 説教要旨

喜び、ほめたたえよ

2021年5月16日復活節第7主日(キリストの昇天)
ルカによる福音書第24章44-53節
伝道師 𠮷川庸介

 旧約聖書における預言の成就とは、「モーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてあること」であります。旧約の時代、絶望の中にあった人々に対し、救い主の到来という希望を教えた言葉がありました。今の時代であれば、ワクチンが完成し、それが行き渡る時が必ず来るといったことでありましょう。確かにそれは暗い時代にあって光指す希望になりえます。しかし、先祖たちが数百年間成就することなく、先祖が苦しみに耐えていた事実を弟子たちは知っておりました。先程の例で言いますなら、ワクチンがいつまでも完成せず、希望を全て打ち砕かれる状況でしょう。私たちもきっとそうですが、叶うはずだと信じていたことが全く叶わない時、やはり失望と共に、言葉に対して関心と信用が薄くなります。イエスの復活を目の当たりにしても、なおイエスを亡霊のように扱う弟子たちも、いつまでも成就しなかった旧約の言葉を思い出し、同じ感情を抱いていたかもしれません。
 しかしイエスは、そんな弟子たちの、頑なになっていた心を開かれました。自分がいかに救い主としての聖書に描かれる言葉通りに歩んできたかを語られます。イザヤ書、詩篇に描かれる苦難の僕を語り聞かせられ、これでもなお本当に信じないのかと言われます。よく、新約聖書において「こうして言われていたことが実現した」という言葉があります。例えば、ユダが自殺する箇所などがありましょう。そこには「こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とあり、エレミヤが語った言葉が語られております。つまりすべては偶発的に起こったのではなく、私たちは到底理解することができない神のみが知っている計画によって、全ては決まっていたことであるというのです。そしてそれを、心開かれた弟子たちは悟ったのです。
 ですが、心を開かれたといえどもそれだけでは十分ではありませんでした。どれだけ救い主であることを悟っても、その喜びを教えるにはあまりにも困難な時代でありました。エルサレムには自分たちを探し出して殺そうとする者もいる以上、宣教も、洗礼を授けることもできないのです。私たちも、喜びを知り分かち合おうとしても、そのたったの一歩を踏み出すことがどれほどの困難であるかをきっと知っているはずです。そのたったの一歩を踏み出す後押しを、私たちは常に求めております。弟子たちも同じであったことでありましょう。それゆえに、イエスは祝福を与えられたのです。
 思い返せばイエスの祝福は、つねに奇跡と共にありました。五千人に食事を与えられた時戸惑い臆す弟子たちに、最後の晩餐の時に、敵を愛せと語った人たちに、この祝福をイエスは与えられ、その奇跡は成し遂げられました。自分の力ではどうしようもなくなり祈り願うしかできなくなり、委ねなくてはならなくなった時、確かに私たちの背を押してくださるものであります。たったそれだけのこと、と言われるような簡単な言葉でありますが、それによって我らはでき得ぬことができるようになるのであります。すなわち、自分たちの敵で溢れかえるエルサレムへとわざわざ戻り、喜んで神を賛美する様子でありましょう。天に昇られたイエスが私たちに残してくださったものこそ、一歩を踏み出すための後押し、祝福であったのです。
 世界には、人の手ではどうしようもないと思えることが多々ございます。しかし思えば、その成し遂げられぬことを人は成し遂げてきました。それは神が祝福されたことによって行われたのではないでしょうか。そして今を生きる私たちもその祝福を与えられ、常に背中を押されていることはなんという恵みでありましょう。その事実の喜びを思い、主をほめたたえつつ、歩んでまいりたいと思います。

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