6月20日 説教要旨

神へ向ける心
2021年6月20日
聖霊降臨節第5主日(生涯のささげもの)
マタイによる福音書第5章21-30節
伝道師 𠮷川 庸介

 人を殺してはならない、ということは遥か昔から言われていることですが、イエスはそこからさらに一歩踏み込み、私たちに言葉を突きつけてきます。
 イエスは、ばか、愚か者というような罵詈雑言を浴びせて責め立てるようなことがあってはならないと教えています。また読み込んでいくと、「腹を立てる」、「ばか」、「愚か者」といった言葉に対しての罰が徐々に重くなっていることにも気がつきます。「腹を立てること」と対になっている「裁き」とは地方裁判所での裁判を指し、続いて「ばか」と言うことに対する最高法院とは、エルサレムにあった最高裁判所を指しています。最後の「愚か者」と口に出す者に対する「火の地獄」とは、エルサレムの近くにある、ゴミや罪人の死体などで埋め尽くされた、想像を絶する場所、すなわち地獄とはかくある場所、と考えられた場所を指しています。間近の事柄を例えとして使い、実感させてきているのです。
 ここで言われていることは、人を殺す前段階とも言える、相手を憎いと思う感情はもちろん、相手に抱かせることも、争いを生む原因を作ることも控えなさい。さもなければ、非常に大きな罰が与えられる、といったことなのです。本来、献げ物とは悔い改めの儀式ですが、人と人との間柄でさえ関係を修復することができていない者が、神と関係をどうして修復できるのか、と問いかけているのでしょう。
 おそらくこれらは、「結果」と「過程」のどちらを大切だと思うか、と鋭い問いかけが含まれているのではないでしょうか。すなわち、罪を犯したという結果ではなく、罪を犯そうとする心を見なさいと教えているのです。
 私はイエスが批判した律法主義とは何か、という問いかけがあるならば、それは形式主義に陥ることだと答えます。神を前にして犠牲を献げたり、イエスが教えた祈りを唱えたとしてもそれが形式的なもので、心からのものでなければ、神は砂一粒ほども喜ばれないことでしょう。私たち人と人とであれば、それは分からないことであっても、それをも知るお方が神なのでありますから。その心の底を、神は見られるのです。
 そのことをより表す言葉が、1クァドランスの例えであります。このクァドランスとは、百円ほどのさほど大きくない額ですが、それだけのお金を払えないだけでも、一度有罪になった者は、牢から出されることはありませんでした。ここでは裁判官たる神を前にして、ほんのわずかの憎しみであっても残すのであれば、ゆるされることはないと、例え話を使って教えているのです。
それは、ほんのわずかでも心に邪念を抱かない者でありなさいということでしょう。しかしそれは、目指すことはできても成し遂げられることは非常に難しいでしょう。なぜなら、私たちは完全な存在である神によって作られた、不完全な器に過ぎないわけでありますから。神ではない私たちに、どうしてできるのか、とも思えます。
 しかし、私たちは神が和解のために欠かせない焼き尽くす献げ物として、イエスの体を献げてくださったという事実を見なくてはなりません。そこには愛する我が子を献げてでも、私たちをゆるそうとしてくださった愛があります。その事実を知ってなお、邪念を抱くことを肯定する者であってはならないことでしょう。どうか神の愛を表すその事実を心にして、神を仰ぐものでありたいと思います。

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