7月18日 説教要旨

憐れみの器

2021年7月18日
聖霊降臨節第9主日(異邦人の救い)
ローマの信徒への手紙 第9章19-28節
牧師 木谷 誠

 聖書には時々、「えー、そんな無茶な、どうして?」と言いたくなるような物語が出てきます。例えばイサクの双子の息子、エサウとヤコブがいます。神様はイサクの後継者に兄エサウではなく弟ヤコブを選びました。理由は明確ではありません。また、出エジプト(イスラエルのエジプト脱出)の物語において、神はわざとエジプトの王ファラオをかたくなにしてモーセの言うことを聞かなくしました。どうしてでしょうか?
 これに対するパウロの答えは実に単純です。神は私たちを造った方(創造者)です。私たちは神から造られた物(被造物)です。神が陶器師ならば、私たちは陶器です。陶器は陶器師に何も言うことはできません。造られたものは、造った方に対して何を言うこともできないのです。ただ従うしかないのです。造られたものは造った方に従う。被造物は創造者に従う。聖書の論理は実に厳しい論理です。それくらい神には絶対的な自由と主導権があるのです。
 しかし、神はその絶対的な自由と主導権を憐みの心で用いました。本来であれば、憐みに値しない者、怒りの器を憐れみの器としてくだっさったのです。ここでパウロは「怒りの器」として真っ先に自分自身を考えています。彼はキリストを信じる者を熱心に迫害しました。彼は神の敵、キリストの敵でした。普通に考えればパウロは神の敵ですから、神の怒りを受けて滅びるはずでした。しかし、神はそうはなさいませんでした。怒りを受けて当然の者を神は憐れみました。そして神は寛大な心でパウロをゆるし、ご自身の憐れみを伝えるために用いてくださったのです。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(テモテへの手紙一第1章15節)」とある通りです。イエス・キリストによって示された神は、罪人の罪をゆるし、その罪を代わって引き受け、命をささげ、罪人を神との愛の交わりへと招く神です。そして「怒りの器」を「憐れみの器」としてくださるのです。
 ところで「器」には二つの機能があります。内容を受け入れる機能と内容を伝える機能です。器は内容を受け入れます。例えばコップは水という内容を受け入れます。水の器です。そして「器」はその内容を誰かに伝えます。器には受け入れる機能と伝える機能、器には二つの機能があるのです。同じように「憐れみの器」は神の憐れみを受け入れます。そして「憐れみの器」は、その憐れみを誰かに伝えます。どちらが欠けても「器」の本来の働きを満たすことにはなりません。パウロは、そしてパウロの同労者たちも、神の憐れみを受け入れ、それを多くの人々に伝えました。特にユダヤ人以外の異邦人に神の憐れみを伝える「憐れみの器」として用いられたのです。
 私たちもイエス・キリストによって神の憐れみ(愛)をいただいています。わたしたちも「憐れみの器」とされているのです。神の憐れみ(愛)を受け入れることができます。憐れみの器として、私たちも神の憐れみ(愛)を伝えます。そのようにして私たちも「憐れみの器」として神様に用いていただくことができるのです。

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