恵みを知り生まれかわる
2021年7月25日
聖霊降臨節第10主日(憐れみの福音)
コリントの信徒への手紙二 第5章14-6章2節
伝道師 𠮷川 庸介
キリストの恵みによって生かされるというその言葉を、パウロは「神に罪を赦されたと知り生まれ変わること」と教えます。私たちは、罪を持っていると言われても理解し難いことでありますが、それはこの世の価値観に照らし合わせれば、という言葉で無理やり肯定してきた自分の弱さ、といったものでありましょうか。絶対的に正しい者―すなわち神―を前にした時、裁かれるに違いないことを指していると私は思っています。人が意識的にしろ、無意識にしろ犯してしまい、ある種の苦しさと葛藤をイエスが自分の体を犠牲にして帳消した、赦そうとしてくれる方がいるということ、そしてそのことを自覚し、新しい生き方を始めることをパウロは教えているのです。
パウロは「一人の方が全ての人のために死んだ。それは全ての人が死んだということである」という不思議な言葉を投げ掛けます。これは自分の生き方や考え方に別れを告げて、新しい一歩を踏み出す自分へと生まれ変わったという意味であります。すなわち、イエスが代わりに背負うために死なれたという事実により、私たちは再び神を前にして顔を向けられるようになった、ということです。これは、和解とも言えるでしょう。しかも、本来は対等な立場に立つことで、お互いが同じテーブルに着くことで可能になる和解を、神の方から申し出たというところが大きな点です。双方がとても歩み寄れないでいたものを、神の方から乗り越えて手を差し伸べたことを意味しているからです。それをパウロは確信したからこそ、それまで築き上げていた全てのもの、それはこの世の価値観に照らし合わせれば良いとされるものを「塵あくた」にすぎないと言い、イエスの生涯を伝えることを使命と考えるに至ったのでした。
ですが、実際のところ罪を赦して背負ってくださったという言葉を、どれほど実感しているのでありましょうか。パウロが、以上のような内容を伝えようと手紙を作ったのは、それを理解していない人々がいるので、何とか伝えようとすることが目的であったのです。パウロは、言い尽くせないほどの、罪を消すということが与えられているのだから、その喜びに動かされて働こうではないかと勧めています。ですが自分のことを思い返すと、結局は、キリストが私のために死んだのだということを、差し迫った我が身のこととして大きな恵みであると体感することがないということがどこかであるものです。結局あなたはその喜びをどれほど我が事と思えているのか。その喜びに基づかない奉仕や働きは虚しいものではないかと、時を超えてパウロは伝えているのです。
それに当てはまるという者に対しても、なおパウロは神の協力者として、神の使者となりなさいと勧めています。それは、信じきれず、独りよがりが入り込んでも、それすらも神がご存知であり、その上で私たちに手を伸ばしてくださっている事実を信じなさいと、言っているのです。ある神学者は、結局神が求められたことは、あなたは、神が赦してくれる事実を信じるか、というその一点であると言います。ただその事実が、かつてそれを知らなかった自分に別れを告げて生まれ変わらさせるのです。どうかその恵みに私たち共に祈り求めたいと思うのです。
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