8月1日 説教要旨

和解 平和 聖霊

2021年8月1日
聖霊降臨節第11主日・平和聖日(宣教への派遣)
使徒言行録 第9章26-31節
牧師 木谷 誠

 本日は教団の定める平和聖日です。八月、私たちは、76年前の戦争、第二次世界大戦のことを思わずにはいられません。広島、長崎に原子爆弾が投下されました。8月6日、空襲によって、今治の町は大きな被害を受け、尊い命が失われました。その一方で、私たちの国は大きな被害をアジアの近隣諸国に与えました。戦争は、夢も希望も愛も志も全てを呑み込んで、大きな悲しみを、傷を、恨みを残してしまいました。今もその爪痕が残っています。私たちはこの戦争の爪痕を、今も悲しみ、傷の癒えない人々がいることを忘れずに、平和への思いを新たにしなければならないのです。
 そんな平和聖日に与えられた聖書は使徒言行録でした。どうしてでしょうか?それはここに記されているのは、和解の物語だからです。誰と誰との和解でしょうか?サウロと弟子たちの和解です。サウロは、熱心に主の教会を迫害するユダヤ人の一人でした。最初の殉教者ステファノの殺害にも賛成していましたし、イエスの弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで熱心に活動していました。弟子たちの中にはそのことをよく知っている者もいたのでしょう。主の弟子たちを迫害したサウロが、いきなり主の弟子となって、仲間に加わろうとしてもそれは簡単なことではありませんでした。人間の感情はそう簡単に切り替わるものではありません。かつてのひどい仕打ちをゆるし、仲間として受け入れ、信頼する。ゆるすこと、受け入れること、信頼すること、すなわち和解。それは本当に難しいことだと思います。和解の実現のためには仲介者が必要です。その仲介者がバルナバでした。バルナバは対立する者たちの目を、神の御業へと向けました。人間を見るのではなく、その人間の背後にある神の働きに心の目を向けさせたのです。かつて主の弟子たちを憎み、激しく攻撃したサウロを主イエスは愛して、サウロの罪をゆるし、新しい者としてくださった。そのような神の御業へと弟子たちの心を導いたのでした。そして、かつての敵をゆるし、受け入れ、信頼することこそ、神の喜ばれることであると弟子たちに納得させたのでした。そこから真の和解が実現したのでした。このように真の和解は、人を見ているだけでは実現できません。その背後で生きて働かれる神の御業を見なければならないのです。その神の御心に聴くことによって真の和解は実現するのです。そこから平和へとつながっていくのです。和解を実現するためには、仲介者が必要です。根本的な仲介者、和解をもたらす者は、主イエス・キリストです。イエス・キリストは、神と人との和解の実現者です。さらに人と人との和解も、イエス・キリストによって実現するのです。イエス・キリストは、対立する者の両方が和解し、愛し合って共に歩むために、十字架にかかってくださいました。その和解を実現する原動力は、私たちが神の御業へと心を向け、聖霊をいただくところにあるのです。
 「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」ここでの「こうして」がとても気になっていました。「こうしてって、どうして?」。ギリシア語を話すユダヤ人たちが激しくサウロを憎んでいました。そのサウロを他所へ逃したから、すなわち「揉め事の種を他所に行かせた」からでしょうか?そんな感じもちょっとします。揉め事の当事者がいなくなれば、揉め事は消えることでしょう。でもそれは長続きしません。本当の解決にはなりません。真の解決のために、もっと大切なことは、神の御業に心を向けることです。自分と合わない人をも神は愛して用いてくださっている。同じ神に愛されている者同士、和解を神が願っておられる。求めておられる。喜んでくださる。そこに心を向けることが真の解決をもたらすのです。そのような和解の実現のためにはとても大きなエネルギーが必要です。それをもたらしてくださるのが、聖霊の働きなのです。真の和解の実現のために私たちは聖霊の導きを求めていきたい者です。そのようにして、教会は、平和(和解)を保ち、神を畏れ、聖霊の慰めを受けて、「平和の道具」として歩んでいくのです。

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