2021年09月07日

8月29日 説教要旨

究極の希望

2021年8月29日
聖霊降臨節第15主日(究極の希望)
コリント信徒への手紙一 第15章35-52節
牧師 木谷 誠

 中学生の頃、アンドレ・ジイドの小説「一粒の麦もし死なずば」を読みました。よくわかりませんでした。なぜ、麦の種が地にまかれることが「死ぬ」と表現されるのか?創世記第3章19節では「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」とあります。死ぬことは土に返ることと聖書は考えているのでしょう。新約聖書においては、そこから一歩進んで、イエスもパウロも、地に落ち、土に混じって死んだ種が、新しい命として生まれ出ると言っています。聖書において、新しい命は死の向こう側、死を超えたところにあるのです。種が地に落ちて「死に」、そこから新しい芽が出ていく自然の営みは、死から新しい命が生まれるというなんとも不思議な神の真理を示すたとえとなっています。この不思議な神の真理は論理的に証明できるものではありません。イエス・キリストが十字架にかけられて死んだ後、三日目に復活し、多くの人と出会われた。パウロも出会いました。この不思議な神の真理は、体験によって裏付けられているのです。最初のアダムは命の初めでした。しかし、彼は神に背き、罪を犯して死をもたらす者、死の始めとなりました。最後のアダムであるイエス・キリストは、復活によって、死を超えた新しい命を実現しました。多くの人と出会い、この新しい復活の命を示し、それを分かち合ってくださいます。自然の命の体は死んで土に返り、イエス・キリストによってそこから新しい霊の体が復活します。「新しい霊の体」とはなんでしょうか? 
 「霊」という表現、聖書においては「目に見えない」という意味と共に「神様との交わりにおける」という意味もあります。「新しい霊の体」は、「新しい、目に見えない神様と交わりにおける体」と言い換えることができるのです。イエス・キリストはこの新しい命の体を与える霊、「命を与える目に見えない働き(力)」となられました。イエス・キリストは天に昇られたのち、聖霊が降りました。この聖霊は、目に見えない神の働きです。この聖霊は、私たちに働いて、復活の新しい命の約束を与えてくれるのです。そしてこの約束は、イエス・キリストが再びおいでになる日に完全に実現します。イエスご自身もそうですが、パウロにしても、多くのキリスト者が、苦難の内に人生を終えてきました。しかし、そこで終わりではないのです。イエスが再びおいでになる日、新しい命に復活することができる。新しい命の体をいただくことができる。この約束が私たちの究極の希望です。
 ところでこの約束、今はただの何も与えられていない「おあずけ」なのでしょうか?そうではありません。この約束には、やがて完全に実現する約束を保証する「手付け」があるのです。この「手付け」は、今、神との愛の交わりを感じて歩む日々の経験として与えられます。礼拝を捧げ、聖書を読み、祈りつつ歩む時、日々神様の愛を感じて歩むことができるようになります。これが神様が私たちに与えてくださる「手付け」です。そのようにして、私たちは、苦難の中にあっても怯むことなく、「究極の希望」を確信して歩むことができるのです。
posted by 日本キリスト教団今治教会 at 15:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください