8月22日 説教要旨

その苦しみはいつまでか

2021年8月22日
聖霊降臨節第14主日(忍耐)
ローマの信徒への手紙 第8章18-25節
伝道師 𠮷川 庸介

 キリストに出会い、自分は救われたと確信したその後、まだ苦しみを体験してなぜと問いかける人はいるでしょう。ですがそんな思いを抱く人々に対し、パウロはその苦しみは、将来に与えられる栄光に比べれば大したことがないと教えます。それは、たとえどのような苦しみが与えられたとしても、神が与えてくれたものだから、最後に必ず神は顧みてくださるのだ、という確信を持っているからです。ただ、その時に苦しみに直面する人が、乗り越えられないと思うほどに苦しんでいるのであれば、この言葉ほど無情なものはないのではなかろうか、とも思えます。
 とはいえ、パウロはその言葉を相対化し、他人事のように語っているわけではありません。22-23節の言葉は、パウロの深い共感を表しているのです。被造物は全て、今日という日まで何も苦労することなく過ごすことができたものはいないし、これ以上の苦しみがないとまで言われる産みの苦しみを味わい、うめいていると言うのです。この言葉は、パウロ自身も、自分が受けた迫害などを通し共感したから出た言葉のはずです。
 けど、その共感があっても、人では乗り越えられないものはたくさんあることは変えられない事実です。生きていれば孤独を味わうこと、迫害を受けることもあるでしょう。そもそも生きているならば「死ぬ」という避けることができない苦しみが待っています。それらを考えてみると、私たちはいつまでこの苦しみに味わうのか、この行き着く先に喜びなんてものが本当にあるのかと、疑いすらします。しかも、その苦しみというものは霊の初穂−すなわち神を知り救われたと確信すること−を受けても、なお与えられるというのです。だからこそ、心の中でうめくほどに神に作られたものは救いを求めるとパウロは教えます。ただその言葉は、神を知っても、信じてもなお苦しいことがあるというのならば、いつまで苦しまなくてはならないのか、神を信じるとは何かという問いが出てくることでしょう。
 その反論に対してパウロは、神によって与えられる救いとは目に見えるもの、俗世的な希望ではないということです。神を信じたから自分には何も辛いことは起きない、願ったことが叶うとか、俗世的な希望−目に見えるもの−で十分だと考えることは誤りであり、本当に与えられる喜びは目に見えるものではない−理解できるものではない−というのです。
 呻き声をあげている人に、その苦しみの向こうに神は必ずや理解し難いほどに素晴らしい救いを与えてくれるという言葉をかけることは正しいのでしょうか。苦しんでいる人の苦しみは、共感することはできても、けっしてその人が思っている苦労を背負うことはできません。それなのに、分かったようにきっと救われると言うことは、なんと無情なことかと思うからです。しかし、自分にとっては乗り越えられないくらいほどの経験を、何年か経ってふと思い返すと、あの経験があったから今の自分がいるのだと、確かにあの苦しさが今の心境、感情へと導いてくれたのだと思うのです。ただそれは、決してあの時の自分には理解できないもので、乗り越えた後、いえ、乗り越える最中だとしても、それを経験した後に、この今ある感情を理解し、確かに神は与えてくれたのだとは思えるのです。
 苦しみの中にある時、理解できないものを追い求めるとは中々苦しいものです。ただ、理解できてしまうもの、形あるものを与えられる、とわかれば人はその時点でその程度のものと思い、さらに追い求めるようになるかもしれません。目に見えないものだからこそ、理解できないほどの良い者、という希望も同時に与えられるのです。
 その励ましをもしかするといっときのための口当たりの良い言葉に過ぎない、と思うこともあるかもしれません。しかし、必ずやその思う時を過去に過ぎ去ったものにした時、この言葉が真実であったことを体感するはずです。どうか苦しい中であってもパウロの、そしてキリストの励ましを胸にして進んでいこうではありませんか。

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