9月12日 説教要旨

分け隔てていませんか?

2021年9月12日 聖霊降臨節第17主日(隣人)
ヤコブの手紙 第2章8-13節
伝道師 𠮷川 庸介

 かつて永遠の命を受け継ぐ条件は何かをイエスに問うた青年は、「聖書には心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛することと記されている」と答えております。これに対してイエスは「然り」と返答しています。つまり、これらが永遠の命を得るという命題を果たすための重要な事柄なのであります。また、この事柄について、明文化したものが律法であり、人を自由へと導くものです。ただし、それを私たち人間が守ることができるかと問われると、やはり答えは否なのでありましょう。
 冒頭に、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は尊いこととありました。ただし、「これを実行しているならば結構であるが…人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯す」とあります。分け隔てる、とは依怙贔屓(えこひいき)をする、という意味でもあります。これはただ、隣人とそうでない人といった具合に区分することだけではなく、神を、キリストを信じるようになった人たちに、そして私たちに、律法への向き合い方を問いかけているのです。
 律法が神から与えられているものなら、それは絶対的に正しいもの、言い訳が効かないものであります。ですが困った人に手を差し伸べるということについて、自分が困った状況にいる時はどうでしょうか。もっと身近な道徳的に置き換えるなら、人と約束がある時、泣いている子どもを見たら声をかけるでしょうか。その時の状況に置かれている自分なら仕方がないのだ、という自分に対する依怙贔屓をしていることはないでしょうか。もしも、他人を自分のことのように愛そうとしている自分は、他のことで、例えば嘘をつくとか見て見ぬ振りをするといったことについて、一つ、二つを違反しても構わないと考えてしまうなら、その時点で律法に対し、神に対して違反者にならざるを得ないのです。
 こう見ていくと、律法は自由をもたらすものではなく、むしろ人を縛り付ける印象を受けます。そして、今日の冒頭の最も尊い律法を実行しているのなら結構だが…あなたはそれ以外で分け隔てたり依怙贔屓をしていませんか?という問いかけに真摯に向き合ったなら、きっと分け隔てている、という答えしか出ないでしょう。ではどうすればいいのか、といってもこの問いは堂々巡りであり、答えは出てくるものではありませんし、これが答えだとはっきりと言えるものもありません。ただ、私たちが時に守れないという罪を犯しても、それを赦すため、神はイエスを地上に送られたのだということをどうか覚えたいのです。神からの言葉を破った事実を赦すことができるのは神のみであります。だからこそ、イエスを神は地上に送り、犠牲として十字架につけて惨たらしい死を迎えさせたのです。実はこれが最後の言葉につながります。
 あなたは憐れみ深い者でなければならないとありますが、これは律法を守ることができない苦しみを取り除くため、自分の死をもってイエスが憐れみを与えられたのに、なぜあなたは他人を憐れまないのか、ということなのです。憐れみをかけない者とは、神からの憐れみにより赦されているにも関わらず、自分は憐れみをかけないで良いと考えている者です。自分に対して依怙贔屓を、あるいは人に対し分け隔てをすることを神は望まれはしないでしょう。いかなる時も自分を見返し、神に望まれているふるまいを心がけたいものです。

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