誰にならうのか?
2021年9月19日 聖霊降臨節第18主日・創立記念礼拝(新しい戒め)
エフェソの信徒への手紙 第5章1-5節
牧師 木谷 誠
本日は今治教会創立記念日礼拝です。心から神様に感謝したいと思います。昨年に引き続き、コロナ禍で迎える創立記念日礼拝となりましたが、そのような中でも聖書の言葉の恵みを分かち合って、143年目への歩みを始めましょう。
本日の聖書は1.「私たちが何者であるのか」、2.「私たちはどう生きるべきか」を示しています。
1.についてパウロは「神に愛されている子ども」と言っています。これは例えです。厳密には私たち人間は「子ども」ではなく、「被造物(造られた者)」です。ここで「神の子ども」と言われるのは「神との愛の関係、愛の交わりに生きる者」ということを意味しています。このように私たちが神との愛の関係に生きる者とされていることは、「にもかかわらず」という言葉がついてきます。第一は、人間創造の初めのことです。神は人間を土のちりから造った「にもかかわらず」この人間をご自身との愛の交わりに生きる者とされたのです。これはとても大きな恵みでした。ところが、人間は神に背き、罪を犯しました。その罪は人間にからみついて、人間は自分の力でそれを取り除くことができなくなりました。「にもかかわらず」の第二の意味は、イエス・キリストの時になって、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪をゆるされ、神との愛の交わりに生きる者としていただいたことです。繰り返し神を裏切り、罪を犯す「にもかかわらず」、ゆるされて、愛の関係に招き入れられて、愛の関係に生きる者とされました。そのためにイエス・キリストが十字架にかかって罪を償ってくださいました。罪をゆるされ、神の子どもとされている恵みは、イエス・キリストの命というこれ以上ない高価な代償によって実現したのです。
ここから2.「私たちはどう生きるべきか」へとつながっていきます。「神に倣う者」という言葉にも繋がっていきます。決して簡単なことではありません。まず大切なことは、常に神の愛をいただくということです。常に聖書の言葉に聴き、祈ることを通して、神の愛を心にいただくことから神に喜んで従おうという愛の応答が生まれてきます。さらにその愛の応答は「神に倣う者」というイメージが示されています。神の愛への応答として、イエス・キリストに倣う者となることが私たちに求められているのです。中世において、トマス・ア・ケンピスが書いた「キリストにならいて」という名著があります。カトリックのみならずアメージンググレイスの作詞者であるジョン・ニュートンやメソジスト派の創始者ジョン・ウェスレーもこの本によって導かれました。キリストを模範として、キリストに学びつつ生きるという意味になります。そのように「神に倣う者となりなさい」というパウロの言葉を「キリストに倣う者となりなさい」と理解するとより具体的にはなります。しかしながら、それは到底自分たちでは真似のしようがない実現不可能な目標に思えます。全く実現できないことを目標とすることは、とても辛いことになります。
ところで昔、わたしは公民館の書道教室(漢字)に通っていたことがあります。王羲之の「集字聖教序」が手本でした。「書聖」とも呼ばれる王羲之の書をお手本にしても、とてもその通りにかけるものではありません。一体いつまでこのお手本をやればいいのだろうかと悩みました。その時、書道の先生は、「同じように書けなくても、一生懸命真似て努力することに意味があるんだよ。」と言われました。目標に到達できなくても、その目標に到達しようとして努力し続け、自分なりに成長していけば良いのです。「神に倣う者」、「イエス・キリストに倣う者」も同じです。とても到達できない。それでもそこを目指して一生懸命日々努力することの中で、私たちは成長することができます。イエス・キリストの言葉に聞くこと、イエス・キリストに祈ること、そのようにしてイエス・キリストとの交わりに生きる時、私たちは神様に喜ばれる「神様の子ども」としてより良い者へと育てられるのです。神様が私たちを育ててくださるのです。イエス・キリストに倣う者として歩む時、私たちは神の愛、イエス・キリストの愛をひしひしと感じ、神様に喜ばれる、神様に愛されている子どもとして歩んでいくことができるのです。
この記事へのコメント