10月3日 説教要旨

何によって歩むのか

2021年10月3日 聖霊降臨節第20主日・
世界聖餐日・世界宣教の日(信仰による生涯)
ヘブライ人への手紙 第11章7-22, 29-31節
牧師 木谷 誠

 ヘブライ人への手紙第11章では旧約聖書の信仰者たちが紹介されています。「信仰によって」という言葉が繰り返し出てきます。この「信仰」とは何を意味しているのでしょうか?ヘブライ人への手紙第11章1節には「1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。この言葉をキーワードとしながら、それぞれの人物の物語を通して「信仰」が語られています。
 まずはアブラハムの場合です。年老いて与えられた息子イサクは一族の運命をつなぐ貴重な後継ぎでした。そのイサクを神は生け贄として捧げよと命じたのです。イサクを生け贄として捧げれば、当然イサクは死んでしまいます。そうなればイサクによってアブラハムの子孫は祝福を受けるという神の約束は果たされません。しかし、イサクを捧げなければ、神の命令にそむくことになってしまいます。どう考えてみても矛盾しています。人間の知恵では解決できません。そのような解決不可能な状況でも、神に従い通すならば、神は悪いようにはなさらないとアブラハムは信じたのでした。神はイサクの命を救い、祝福を再確認しました。アブラハムに与えた神の約束は裏切られませんでした。
 次はイサクです。イサクには双子の息子がいました。エサウとヤコブです。あとを継ぐ祝福は弟のヤコブに与えられました。祝福は一つしかありません。一人に与えられれば、もう一人には与えられません。しかも二人は解決不可能なほどに深刻な対立状態となってしまいました。それでもイサクは二人の息子の祝福を祈りました。イサクは解決不可能、和解不可能な関係であっても、神は必ずなんとかしてくださると信じたのです。ヤコブの子孫はイスラエル、エサウの子孫はエドム人です。それぞれに争いを続けながらも、後々にはエドム人はイスラエルに吸収されていきました。神様はイサクの祈りにそれなりに答えてくださいました。この後のヤコブ、ヨセフたちも基本的には同じです。
 このようにそれぞれの信仰者たちの物語をみていきますと、そこから浮かび上がってくる信仰は、「望んでいる」こと、すなわち神の約束は、必ず実現すると確信することです。そしてこのようなことをなされる方はイスラエルの神のみであると告白することだということとなります。まだ見ていないこと、到底実現(解決)不可能に思えることであっても、神の約束は必ず実現すると信仰者たちは信じたのです。それを確信することは、人間の知恵や経験では不可能なこと、あり得ないことを信じるのですから、決して容易なことではありません。しかし、人間の可能性を超えて神は生きて働かれます。そのことが旧約の物語によって示されているのです。
 これらの信仰者たち、確かに立派な信仰者です。しかし、忘れてはいけないのは、私たちと同じ人間だということです。彼らは自分たちの知恵と力の限界がよく分かっていました。だからこそそれを超える神の御業の世界に自分を委ねていったのです。そして神は、これらの人々の信頼に応えてくださいました。神は人々に寄り添い、導き、その約束を実現してくださったのでした。この神の御業の世界に私たちも招かれています。約束を忠実に守ってくださる神の真実は永遠です。私たちの世界にも大きな不安があります。先が見えません。しかし、かつて旧約の信仰者たちに寄り添い、導かれた神は、今も、そしてこれからも生きて働かれます。神は聖霊によって私たちの心に愛の炎を燃やし、慰め、励まし、導いてくださいます。この神の御業の世界に私たちも信仰によって歩み出してまいりましょう。

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