果たすべきこと?
2021年10月10日 聖霊降臨節第21主日・
神学校日・伝道献身者奨励日(上に立つ人々)
ローマの信徒への手紙 第13章1-7節
牧師 木谷 誠
本日お読みいただきました聖書は、12章1-2節の具体例の一つ、「上に立つ権威」すなわち国家に対する態度として挙げられています。
さて、私が尊敬するカトリックの神父の一人に本田哲郎神父という方がおられます。本田神父は大阪の釜ヶ崎でホームレスの方々と共に生きておられます。NHKの番組でも紹介されました。番組の中で本田神父は3畳一間に住んでおられ、ホームレスの方のために床屋さんをしておられました。そのような本田神父は学問にも優れておられ、ギリシア語、ヘブライ語への造詣が特に深く、小さくされた人々の立場に立って、聖書を読み、メッセージを伝え、また愛を実践しておられる本当に素晴らしい方です。私は幸いにも本田神父のお話を名古屋で伺うことができました。お話の中身も素晴らしかったですが、質問者を見つめる愛情と好奇心の混ざった暖かい眼差しがとても印象的でした。その本田神父のお話の中で、今日お読みいただいたローマの信徒への手紙第13章1節の翻訳はおかしいといっておられました。確かに元々の言葉は「より優れた権威」と理解することができるのです。また「より優れた権威」という時にも、4節にありますように、その権威が神の御心に従うということが前提となっています。例えば、ここで「上に立つ権威」を国家とした場合、国家が不正を行い、弱い人を虐げている時、神の御心に背いていることは明らかです。そのような中で、国家に無条件に従いなさいということにはならないのです。ただし、国家が法に従って、人々の生命、財産、権利を守っている時も多くあります。そのように国家が神の御心に従っている時には国家に従いなさいとパウロはここで勧めているのです。
もう一人、種谷俊一牧師という方を紹介したいと思います。種谷牧師は学生運動に参加した少年を匿い、一週間後に警察に出頭させました。そのことで、警察から犯人蔵匿罪で訴えられたのです。しかし、種谷牧師はそれを受け入れませんでした。種谷牧師が学生(教会に通っていた)を匿った行動は、信徒の魂への配慮であり、信教の自由に基づく行動であるとして裁判で争ったのです。種谷牧師の主張は認められ、無罪となりました。この裁判有名で、同志社の法学の教科書には昔は必ず出ていました。その裁判の際、種谷牧師は証言を求められると聖書を引用してお話しなさっていたのだそうです。まるで使徒言行録のパウロのようでした。ある公判の中で、相手が、このローマの信徒への手紙第13章1節を引用して、種田に牧師の行動は間違っているのではないかと問いました。この問いに対して、種谷牧師は「従う」という言葉を「正しく仕える」と理解していると答えたのです。何が正しいかの基準は神の御心です。私たちは神の御心に従って、国家に対して、正しく仕えるべきであるとパウロは教えていると種谷牧師は言われたのでした。私たちは、今、この日本にあって、日本の国が神様の御心に沿っているか、間違っていないかを常に祈りつつ、聖書に聞きつつ、吟味して「正しく仕える」ことが求められているのです。
私たちの国も歴史の中で国家の過ちを正すことができず、むしろそれに従い、大きな過ちを犯してしまいました。私たちはこの聖書の言葉が伝える本当の意味を受け止め、常に日本の国のあり方が、神の御心に従うものとなっているかどうかを吟味しなければなりません。そのためにも先ず私たちが神のみ心に聞き、神の御心に従い、自分自身を吟味しつつ歩みたいものです。それが私たちの「果たすべきこと」の一つなのです。
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