11月14日 説教要旨

救いの神

2021年11月14日 降誕前第6主日・
障がい者週間 (救いの約束 モーセ)
出エジプト記第6章2-13節
牧師 木谷 誠

 今、教会の暦では「降誕前」の季節を過ごしています。11月21日までが降誕前、11月28日からが本格的なクリスマスへの準備期間(アドヴェント)となります。この降誕前の季節のキーワードは、「契約(約束)」です。全ての始まりとしての天地創造、そして人の罪、そしてその罪から救うための約束(契約)としてアブラハム、モーセ、ダビデと物語は続いていきます。その約束の成就としてイエス・キリストの誕生、クリスマスの祝いとなるのです。
 さて、私の恩師の一人である野本真也先生が10月10日に天に召されました。野本先生には、大変お世話になりました。その野本先生がよくお使いになった例えというかエピソードに「キウイの喩え」があります。キウイ、あのフルーツのキウイです。どのような例えかと言いますと、野本先生が、昔、当時はとても珍しかったキウイを京都の錦小路の果物屋さんから買ってこられたのだそうです。そのキウイを息子さんに見せました。すると先生の息子さんはまず「わあ、ジャガイモみたいだ」と言いました。次に野本先生がキウイを切って、その中身を見せました。すると息子さんは「わあ、ゼリーみたいだ」と言いました。それから実際に食べてみると「わあ、いちごみたいだ」と言われたのだそうです。同じキウイが関わり方によって、ジャガイモのように見えたり、ゼリーのように見えたり、イチゴのような味がしたりします。同じキウイでも関わり方によって違う経験になるのです。私は、アドヴェント前に、アブラハム、モーセ、ダビデと続いていく聖書の流れを見て、このキウイの例えを思い出しました。アブラハム、モーセ、ダビデが出会った神様、同じ神様です。でもアブラハム、モーセ、ダビデは関わり方によって、神様の違った一面を経験してきました。11月21日まで、私たちはアブラハムが出会った神、経験した神、モーセが経験した神、出会った神、ダビデが経験した神、ダビデが出会った神(この週は夕礼拝ですが)、それぞれの物語のメッセージを分かち合いたいと思います。
 今日の聖書はアブラム(アブラハム)、アブラハムが出会った神、アブラハムが経験した神の物語です。アブラハムの物語は、神の約束を信じたアブラハムの信仰という面に注目して語られることが多いです。しかし、今日の聖書はむしろその逆、アブラハムに向き合った神とはどのような方であるか。このアブラハムの物語の第一の特徴は、神はアブラム(アブラハム)に呼びかける神であるということです。アブラハムが神を見つけたのではなく、神がアブラハムを見つけ、呼びかけて物語は始まります。聖書が告げる神はそのような呼びかける神なのです。ここにおいでの皆様も、ご自分の意思で教会に来られ、続けておられるのだと思います。しかし、その前に神が皆様を見つけ、呼びかけているのです。
 では、神は何をアブラハムに呼びかけたのでしょうか?それは新しい人生の旅の始まり、神と共に歩む新しい旅、そして祝福の約束です。そしてその実現のために神は生き生きとアブラハムに働きかけます。何の変哲もない一人の人間、しかも年老いて新しい可能性を見出しづらいアブラハムに神は生き生きと呼びかけ、祝福を約束されるのです。その約束は途方もない約束でした。年老いたアブラハムがたくさんの子孫を与えられるというのです。普通に考えればあり得ないことです。この神の約束は人間の経験や知識を超えています。
 教会でも世間一般でも、高齢化のこと危惧されています。しかし、今日聖書が伝えるアブラハムの物語、アブラハムが出会った神は、高齢者に呼びかけ、人間の知識や経験を超えた、新しい旅へと招く方です。そしてそれを実現してくださる方です。高齢化社会にあって、私たちの希望は、この神にあります。
 そしてこの神は約束を守る方です。私が高校生の頃、近くの教会の若い牧師さんが情熱を込めてこう言ってくださいました。「私たちが約束を破っても、神は決して約束を破ることはないんだ。」と。アブラハムでも神への信頼を見失い、約束を破ったこともありました。相手が約束を破ったなら、もう約束を守る義務はないはずです。しかし、神はアブラハムを見捨てることなく、約束を守り続けられました。そのように神は約束を守り、その約束の責任を取る方なのです。神は、信じて従う人間に対して約束を守り、責任を取られます。私たちもこの神を信頼し、希望を人生の旅路を歩み続けていきたいと思います。

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