11月21日 説教要旨

神は私たちのために

2021年11月21日 降誕前第5主日・
収穫感謝日・謝恩日 (王の職務)
テモテへの手紙一 第1章12-17節
伝道師 𠮷川庸介

 信仰を知るには何がきっかけとなるかと言われたとき、様々な理由があるでしょうが、やはり信仰者の生き様こそが人を動かすことでしょう。パウロがイエスこそキリストであるとの信仰を伝えるその姿を見た人々は、この人はキリスト者としてのあり方を体現している方であると思ったに違いありません。しかし、パウロはそんな抱かれたであろう想いとは逆に、己こそ最も罪深く、罪人のかしらであるとまで言い切るのです。
我々が本日読むこの手紙は、エフェソという街にて宣教にあたっていたテモテへと向けられた手紙です。このエフェソの街は一筋縄でいかない街であったようであり、はっきりと信仰を持つと口にした者たちが、別のものに心奪われ、そちらをより素晴らしいのだと考えるようになっていたそうです。このような事柄を聞くと、人というものは不義、不信、不忠といったものが根付いた存在であると思わされます。しかし、パウロはそうした人をふるいにかけるようにして落としなさいというわけではなく、逆にそのような人たちにこそキリストの信仰を伝えるべきであると強く語るのです。
 パウロ自身は、キリスト者の群れを荒らす狼のかしらのような存在であり、人の殺害にまで関与する極悪人でもありました。そのように、かつて悪虐を尽くした者を神がゆるし、自分の業を伝えるために取り上げもしたというところに神の懐の深さを見ます。我々が自分たちを迫害するほどの人を目の前にするならば、私たちはどんな顔を、態度を表すでありましょうか。おそらく、これを、笑顔でゆるすこと、あるいは飲み込もうとすることは不可能に近いものでしょう。しかし、罪人のかしらとなろうが、変わらずに憐れみを与え、あまつさえ自分を証することをゆるす方がいることを自覚したならば、どうしてその方を伝えないでいることができるでしょうか。パウロはまさに、それを自覚し知ったからこそ、それまでの自分を捨て去り、新たに生きることを選んだのです。そのあり方は、厚顔無恥と言われ罵られもしたでしょう。事実、使徒として歩みを始めようとするとき、彼はイエスの殺害を間近で見ていた弟子たちに疑いの目を向けられていました。しかし、それを向けられてなお、彼は手紙の中で感謝を言うのです。しかもそれは、ただ感謝を述べている言葉ではなく、最上級の感謝の言葉でありました。まさに罪人のかしらであるほどの自分を、神は自分の力を見せて罰するのではなく自分の懐へと入れてくださった。さらには自分に忠実な者としてキリストを伝えるという大きな役割を与えてくださった。これに感謝せずにどうしていられようか、というのです。
 キリスト教信仰の最も根幹たるのは、ここであるに違いありません。神は、私たちが不完全な者から完全な者へとなることができたから、私を愛して役割を与えてくださったわけではないのです。自分がどれほどに罪を持ち、どれほどに欠けたる器であるかを自覚し苦しむ人をも、神は自分の懐へと招き入れてくださるのです。そこにあるのは、出来の良い子だけに目をかけようとする愛ではなく、どんなでもあろうと変わらぬ愛を注ぐという姿そのものが見られるのです。最後に彼がいう「永遠の王よ、不滅で目に見えない唯一の神よ、あなたにこそ誉と栄光が永遠にあるように」これぞまさにパウロの溢れ出る神の愛への感謝と信仰の表れであります。彼の言葉は、私たちのために神は何をしてくださったのかということを、力強く教えているのです。

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