11月28日 説教要旨

何に望みを置く?

2021年11月28日 待降節第1主日
(主の来臨の希望)
イザヤ書 第51章4-11節
牧師 木谷誠

 アドヴェントが始まりました。クリスマスに備える4回の日曜日をこれから過ごします。本日の礼拝のテーマは「主の来臨の希望」となります。この「主の来臨」とは、キリストの再臨のことです。イエス・キリストは2000年前、この世界においでになり、人として生き、神の愛を注ぎ、十字架にかかり、復活され、天に昇られました。そしてイエス・キリストに代わって、聖霊が天から降りました。この聖霊は、目に見えない神の働きで、わたしたちに寄り添い、心に神の愛を注ぎ、慰め、励まし、導く神の働きです。この聖霊に導かれる時を、私たちは、今、過ごしています。そして天に帰られたイエス・キリストが再びおいでになり、救いを完成してくださいます。これを「キリストの再臨(来臨)」と呼びます。私たちは、このイエス・キリストが天に帰られてから再びおいでになるまでの「間の時」を生きているのです。
 アドヴェントの第一の礼拝、わたしたちは、主イエス・キリストがおいでになられた過去の出来事を振り返り、主イエス・キリストが再び来られる日に備えることの大切さを、聖書を通して共に確かめたと思います。
 本日の聖書は、主イエス・キリストの再臨の日に実現する救いの完成の風景を預言者が伝えています。ここで最初にお伝えしたいことは、主の教えと裁きは、現実の苦しみに喘ぐ者にとって、希望の光であると言うことです。特に「裁き」と言いますと、私たちは「人を悪いと決めつける」とか「人を罰する」というような印象を受けることが多いのですが、本来はそういう意味だけではありません。裁きは、救いの完成の中で、決して欠くことのできない要素です。それは神の正義の実現を意味しています。この世の現実は矛盾と不条理に満ちています。イエス・キリストがおいでになってから、今に至るまで、救いの恵みが表されたといいながら、多くの苦しみ、争いが止むことがないのが現実です。私たちの社会は、大きな声や権力、財力によって支配され、小さな声や弱い者が無視され、正義と愛が退けられる苦い出来事が沢山あります。希望を見失い、心が折れそうになります。神の裁きは、神の正義の実現によって悪を正し、弱い者を救うのです。
 現実の矛盾に悩むわたしたちに対して「目を上げよ」と預言者は呼びかけます。この天と地が消え失せようとも神の救い、神の恵みの業は実現するという希望があるのです。この矛盾と不条理に満ちた困難な現実は、けっして最終的なものではありません。希望があります。おそれおののくわたしたちに対して、預言者は励ましと希望のメッセージを伝えているのです。そして、今日の私たちは、主イエス・キリストの再臨(今日の礼拝の主題では「来臨」)こそ、その希望の実現であると信じるのです。力が支配する中で、力に対して力で立ち向かうか、それができないなら諦めて絶望し、流されてしまうのか。そうではなく、希望を持って、主に信頼し、主に従ってこの地上の歩みを全うしていきましょう。主イエスは再び来られます。この約束は決して破られることはありません。そしてこの矛盾と不条理に満ちた世界に救いを完成してくださいます。私たちの信頼は裏切られることはありません。
この希望をイザヤ書ではかつての救いの出来事、天地創造と出エジプトを根拠として確かめました。今日の私たちにとっては、主イエス・キリストがこの世界に来てくださり、愛を注ぎ、十字架において命を捧げ、復活され、天に昇られた出来事、そして再び来られ、救いを完成してくださると言う約束が私たちの希望です。過去の救いの出来事は、遠い思い出に留まるのではなく、今の慰めと励まし、そして未来への希望につながっているのです。そしてその救いの完成、主イエスの再臨(来臨)の希望は、聖霊によって、私たちの心に豊かにもたらされます。主の再臨の日を待ち望みつつ歩む私たちを神は放り出して、「その日まで頑張ってね」ではありません。困難な現実を歩む時、ゴールまでの道のりに寄り添い、時に励まし、時に慰め、時に適切な指導を受ける必要があります。主イエス・キリストが再びおいでになるまでの間、主イエス・キリストに代わって、聖霊が天から降り、ゴールまでの困難な道のりに寄り添ってくださいます。私たちは礼拝、集会を守り、聖書を読み、祈る中で、この聖霊の豊かな働きをいただき、歩んでいくことができるのです。その時、私たちは、救いの恵みを先取りし、豊かな喜びに満たされ、賛美の歌を歌いつつ、この地上での歩みを全うすることができるのです。私たちの地上の歩みはそのような、主によって解放され、贖われ、感謝と賛美を捧げる歩みとなるのです。
 この主の約束を共に確かめ、希望を持って歩んで参りましょう。

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